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趣味の自作航空機

     

趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編 (その1)  
GYROS mffm MY FAVORITE FLYING MACHINE  since 1969
©June 2017 M.Kokubun 國分正紀
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予備知識  
スペインのシエルバ(Juan de la Cierva)は、自分が設計した飛行機が、飛行機に本質的な特性(機体全体が失速する)を原因として墜落したことを背景に、そのような危険が無い航空機の研究を始め、オートジャイロ(Autogiro)と名付けた航空機を発明して成功した(1923年1月)。それは改良されて、滑走しなくても離陸出来るようになったが、空中に停止する事は出来ず、着陸時には短い滑走が必要であった。 一方でヘリコプタ(ヘリコプター helicopter)が成功して進歩し実用化された為、第2次世界大戦後にオートジャイロは姿を消した。しかしアメリカのベンセン(Igor B. Bensen)がスカイスポーツ用の超小型軽量・単純な構成のオートジャイロを開発して成功させ(1955年12月)、これをジャイロコプタ(ジャイロコプター GyroCopter)と名付けて、普及をはかった。
航空法令上の呼称は、オートジャイロもジャイロコプタも含めてジャイロプレン(ジャイロプレーンgyroplane)である。一般的に、総称して単純にジャイロと呼び表わす事も珍しくない。ヘリコプタもジャイロプレンもローター(回転翼)によって空中に浮揚するのだが、ヘリコプタのローターが動力によって駆動されているのに対して、ジャイロプレンのローターは通常動力には繋がっていない。機体が進む時の相対的な風圧によって自動回転(オート・ローテーションautorotation)して浮力を発生させている。次の概要図はベンセン式の例。
DiagramB80
G6-2DKcutawayD



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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  7

G6-2DK テスト再開

昭和45年11月1日(日) ノーズ・ギア(前脚)にシミー・ダンパーを追加して新しいロータ ー・ブレードとプロペラで訓練を再開。 岐阜飛行場の旧滑走路(10月に使用許可を再申請した)でタキシー・テストから始まってローターの始動と加速 最終的に十分な揚力が出てノーズ(機首)が上がって滑走速度が急減速する所までの訓練を繰り返しやった。


初浮上 (First lift-off /Jump flight)

昭和45年11月3日(文化の日 Nov. 3 , 1970) この日は前の日曜日に間に合わなかった志水さんも頑張って完成させて自分のS2型機をトレーラーで運んできて一緒に訓練を始めた。1日にやったローターの加速の復習をして 次は離陸の為の滑走訓練。 機体を主車輪だけ地面に付けた状態で一定の姿勢と速度を保って走り続けなければならない。   機体が前後に傾くのに対応させて操縦桿を前後にあるいは周期というか位相を合わせるために逆方向に操作して とにかく揺れないで一定の姿勢を保つように努力する。 少こし要領が分かって慣れてきてパワーを極く僅か増した状態で同じ事を繰り返す。 休憩しながらこうすれば良いああすれば良い等と意見を交換しながら二人が代わる代わるやっている内に浮いた浮いた 浮いているよなんて声が出てくる。

liftoff1a

liftoff2a
G6-2DK 初浮上 Nov. 3 , 1970

後々振り返って見ると このように短絡的性急には浮かそうと意識しないでやっている時は以外とスムーズに浮揚する様であり これは約20年後G6-2DKの改良型G6-VW1500で同じ状況に出会った事でもある。 
更にスロットルを開いて 今度は単なる浮上ではなくて 浮上時間と距離がより長い明確なジャンプを狙う。合い言葉は”記録” カメラのシャッターを押す事 自動車でチェイスしながら 壊す前に写真を。そして幸い事故も無く機体も壊さずこの日二人仲良く最初のジャンプに成功して証拠の写真も確保した~メデタシ。 証人は小坂繁也氏 伊藤恒男氏 そして吉田圭助氏。

G6 jump1

8日はナイキJ(?)反対デモが有るからの理由で基地入場不可 従って滑走路使用も不可となり名古屋市の動物園へ行った。 家族サービス。


吉田圭助 氏

吉田氏は当時 航空自衛隊岐阜基地/実験航空隊でF104 等のパイロット兼教官であり 後 **司令を経て退役 伊藤さんとは姻戚関係にあると聞いた。 ヘリコプターの教官でもある氏は私達が訓練している時にたびたび現われて折に触れて有益な助言をしてくれ また敷地内の官舎へ招いてくれてお茶をごちそうしてくれたりした。 記憶にある話の中に操縦操作に関して”ポンピング・アクション”と云うのがあって これはベンセンのマニュアルで説明しているジャブ操作の事と理解できた。 後で周回飛行が始まった時は”縦の姿勢の目安になる風防も無いし水平尾翼も無いのに良く安定して飛べるね”というのが第一線のジェット・パイロットの感想だった。 自分の岐阜に於ける生活がまもなく終わる事を知った時はG6型機を所望されたが希望に添えなかった。
k yosida

吉田圭助教官(後ろ向き)


701112 次期輸送機 XC 初飛行

昭和45年11月12日自衛隊向けの次期輸送機XC(後の C-1 )が初飛行した。しばらく前には私達が借りていた旧滑走路で走行している姿も見られたのだが 今日はもちろん長いメインの滑走路を使用した。 関係者は建物の屋上から見学を許されて 離陸して飛び去る間に誰からともなく歓声と拍手が起こった。 最初の試験飛行を終えて帰路につくと着陸予定時間の社内放送が有って また皆でぞろぞろ屋上へ上がる。遠くに機影が見えて そして緊張して見守るなか無事着陸。 拍手と笑顔 握手をしてる者もいる。このような光景は会社に入ってから2度目 最初は次期対潜哨戒機GK210(後のP-2J)初飛行 (昭和41年7月21日)(1966) だった。


S2機 落下着陸

11月15、22、23日の休日がナイキJ(?)反対デモが有って基地入場滑走路使用不可。
当時各務ヶ原市の航空自衛隊岐阜基地内に「ナイキJ」陣地を作る計画が発表されていた。 何日も滑走路を使用できないで少しイライラしていた後のしばらくぶりの訓練。横風が少し強い日だったが 気分新たに自分のG6機と志水さんのS2機で先の訓練の復習および慣熟から始まった。 安定した超低高度(地上高 約1メートル位まで)飛行と着陸接地操作が課題。 訓練半ばインターナショナル・オレンジ色の塗装が目立つKV107へりコプターが飛来し しばらくしたら操縦士がやってきて 風の乱れと横風に対する注意を喚起してくれた。 最後に志水さんのS2機が落下着陸してアクスルとキールを損傷したため 本日の訓練は終了とした。


Hands off flight ~ 手放し飛行

G6-2DKの場合初めは 見当で付けたスプリングが弱くて いつも意識して操縦桿を引いていなければならなかったが 押し続ける事よりは楽と思われた。その後スプリングの数を増やして トライ&エラーで調節して最終的には 浮上して速度と姿勢を確認すると同時に操縦桿から手を離して 安定した上昇飛行に移行する事が出来た。但しそのままの状態で周回飛行高度まで行った訳ではない。

2dk handoff 1
手放し飛行


オフセット・ジンバル・ヘッド
1970年暮れにG6の飛行試験を始めた頃 ローター・ヘッドを見た小坂繁也氏は 「これじゃ アカン」と言った。 私のローター・ヘッドのジンバル部分は アルミ合金のブロックを手加工して組み立てた物であって 機械加工の物に比べれば 確かに貧弱 大変見劣りしたのは事実である。 しかし小坂さんの指摘は オフセットが有る事を指してそのように言ったのである。 ジンバルのピボットが回転シャフトの中心から外れているので それはよろしくないとの意味である。 私はスプリングをあれこれいじりながら オフセットの意味やオフセット・ジンバル・ヘッドの技術的な背景を説明した。 そしてまもなく 志水S2機の坂元式スピンドル・ヘッドのジンバル・リングは改良され オフセット付きになった。 それを見た私にとって その加工は大変難しいと思われて 質 問してみたら  彼は”旋盤加工だけで出来た”と機械加工が専門の小坂さん。
彼はベンセン・ジャイログライダーを紹介したPopular Science 誌の日本語版1954年10月号を保存していた~貴重。

2dk handoff 2
2dk handoff 4
2dk handoff 3
 坂元式ローター・ヘッド


志水S2機デビュー

昭和45年11月3日 文化の日 シミーダンパーを付けたノーズギア 新しいローター プロペラ その他細々した改修を施したG6-2DKの地上試験を再開しての2日目。

志水さんのVW1600ccエンジン搭載S2機がトレーラーに載せられてやって来た。 大変丁寧な仕上がりで 自動車整備工場勤務という職業柄もあって 特に塗装が素晴らしい。 下地作りは彼女に手伝ってもらったとかいうFRPキャビンと尾翼はパール・ブルーのメタリック。 ローターブレードとプロペラはシルバー。 軽乗用車の座席を利用した座席はデラックス。 ローターヘッドは坂元式のオール・スチール製。 自分のG6は どこをとっても見劣りする。 そして良く見ると エンジン搭載の向き 従ってプロペラ回転方向及び ローターの回転方向がベンセン式のVWジャイロコプターと逆で 聞いてみるとG6にならったと言う。 自分はエンジン・マウントがやりやすいので プーリー・エンドにプロペラ・ハブを付けた。 ベンセン式は逆でフライホイール・エンド側である。 結果プロペラの回転方向が後ろから見てCW(クロックワイズ) ベンセン式はCCW(カウンター・クロックワイズ)。 でこれに合わせてローターの回転方向も逆にすれば無難であろうとの判断でブレードを逆に作った。 だから上から見てやはりCWとなった。 プロペラ・トルクや後流の影響  Pファクター そして側方傾斜b1ティルトの影響等々がどの様に作用して どちら向きの回転が良いのかの判断は付きかねたが 単純にプロペラの回転方向がベンセン式と逆なのでローターもそうしようの結果である。回転方向はともかく 更に驚いた事には 
ローター・ブレードの構造も同様だと言う。 ブレードの構造がG6とS2とで同じであった結果~しかも同じ材料で同じ接着剤を使用したので~これは時間がたつにつれてクリープ現象で 同じ様なドループ(垂れ下がり)を示した。  G6のブレード断面構造は Wallis WA-116のそれにならったもので 極端な結果は予想外の意図の他であった。 

wood beam 2
ブレード断面の比較

ベンセン式の断面係数は大きい上に 金属桁は木部に対して木ねじで止めてある


S2-G6 a
大きくドループしたローターブレード

バックは C-1輸送機用組立工場 JA1001飛行船も使用した
その屋根のカーブと一致したのは計画外 回っていれば遠心力と揚力で
コーニング角が付くのだが・・・


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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  6

型式記号番号 G6-2DK

昭和45年5月23日 キャビン・トップにヘルメットに合わせてレーシング・ストライプを入れた。 当初考えていた型式記号「G6」は これにサブ・ダッシュ記 号「-2DK」を付け加える事として 尾翼の日の丸 直径を50mmから66mmに拡大 「G6」の下に「2DK」を書き入れた。 部屋の中としては最後の写真~分解した状態~を撮った。 

hansyutsu mae
 写真の右中央は尾翼 左上はローター・ブレード 
 中央はグラスファイバー・キャビン 下はエンジン。


明日は巣立ちの日 搬出の計画。


搬出 移転先はグライダー格納庫

昭和45(1970)年5月24日 搬出。 分解した部材をアパートの3階から降ろして軽乗用車(フロンテ)のルーフラックや座席に積み込んだ。 長さ3mのローター・ブレードは 玄 関から出して階段の踊り場でターンする時など 壁などにぶつけて傷を付けない様に特に気を使った他は 階段の上がり降りを繰り返せば良かった。 エンジンは重いだけに多少骨だったが上げる事に比較すれば楽なもの 2度と戻って来るんじゃないよ!。 
移転先は勤務先のグライダー部の格納庫で 会社と部に対して文書を出して許可を得て ある。 長尺のローター・ブレードやかさばるキャビンなど大きな部材は屋根に載せ 背当てを倒した助手席にエンジンを 吸気マニフォールドや燃料タンクなど他の細々した物は後部座席に積んだ。 結局この日 必要な工具やテーブル等も含めて満載状態で2回往復して済んだのだが 飛行機で有れば主翼や胴体が比較にならない位大きいので こう
は行かない~少なくとも小型のトラックが必要であろう~もっとも 部屋の中で翼なり胴体を完成させたとしての話であり その場合はそもそも搬出から問題になる筈。 午後には組立作業をやって一応の形にはしたが しかし疲れた~18時前に終業。


ForFB 055a

1回目  マスト キール 脚 尾翼等 エンジンは助手席

ForFB 054
2回目 ローター・ブレード  キャビン プロペラー等

ForFB 061

      <移転先 グライダー部格納庫前にて虫干し?>  


BENSEN MANUAL (A) 

先に(2月9日)注文していた BENSEN のジャイロ・グライダー及びジャイロ・コプターのマニュアルが届いた。 両方の和訳版は既に持っていたのだが 操縦方法訓練方法については気になって これだけは厄介でも なんとか原文で読んでおきたかった。和訳版では省略あるいはイラストに代えられていた写真の幾つかを複写して航空自衛隊宛ての飛行場借用依頼書や運輸省航空局宛の飛行許可申請書に添付した。 


オートジャイロの操縦は易しい?

オートジャイロ(あるいはスポーツ・ジャイロ)の操縦は いったい難しいのか易しいのか?。
BENSEN のマニュアルでは ジャイロ・グライダーの曳航前の段階から非常に慎重で 急がずに多くのステップを踏む様に記述してあり 特に飛行機の経験者は要注意といった表現もみられた。 BENSENの基本モデルは(操縦方向の反転装置が無い)オーバーヘッド・ハンギング・スティックなので そのあたりも関係有るのだろうと考えたりしたのだが 一方で自分がジャイロプレーンを自作する事にしたきっかけの一つ WALLISのレポート(1963年2月)では 次のように記してあって 当時の自分は特別難いものとは受け取らず むしろ「飛行機の様な操縦感覚と安定性」の印象が強く残った。 

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「オートジャイロの操縦には スピード・レンジが広くて失速しない飛行機を操縦するのに似たテクニックが必要である」
「飛行機のパイロットは 飛行機操縦技術の延長と感じる」
「ヘリコプタのパイロットは (エンジントラブル等の)緊急事態に左手を伸ばしてもコレクティブ・ピッチ・レバーが無い事に気がつく」
「だからオープン・コックピットのフロアがない形式ではあっても フロア・スティック・タイプのオートジャイロの操縦は操縦装置の配置や感じも飛行機に近い」
「適正なローターシステムとローターヘッド及びリンケージの幾何学的な構成(例えばオフセット・ジンバル・ヘッド)によって飛行機の様な操縦感覚と安定性が得られた」
「9人のパイロットがテスト飛行し そのうち5人は回転翼航空機の経験は無かったが このオートジャイロ(WALLIS WA-116)に慣れるのに要した時間は非常に短かかった。 もちろん最初のソロフライト前にブリーフィングを行った。 操縦装置の配置や感覚が小型の飛行機に似ているとは言っても 一般的でない特殊な航空機であるから かなりのメンタル・アジャストが必要であった。」
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 参照頁:Wallis の講演 Feb. 1963


BENSEN MANUAL(B)

ベンセンのマニュアルは次の2部からなっていて 手持ちの1は第20版 2は第13版(いずれも1969年)である。

1 GYRO-GLIDER  Building instructions with operating and flight manuals
2 GYRO-COPTER  Engine installation, construction & flight manual

両方の序文や一般概要を通して ヘリコプターの歴史やスペインのシェルバによるオートジャイロの発明 ドイツ軍や英国軍の無動力ジャイロの事など ベンセンがジャイログライダーやジャイロコプターを開発する背景となった歴史や経過 そして特徴などが簡潔に述べてある。マニュアル全般に沢山の写真が載っているのだが 最新のB-8M型に至る間の少し違った形の物も有る。 但し それらは既に過去のモデルであるからと断って アマチュアは自分のアイデアを試す前に まず最新型の図面に従うよう奨めている。
 序文等によればグライダーやコプターは1953年以来のプロによる技術開発の産物で 54年からグライダーの生産販売を始め 55年にコプターが初飛行したとある。 当然ながら多くの試行錯誤があっただろう。それで興味深いのはコプターの日本語版の表紙写真である。ローター・ブレードのルート部(付け根)の形から ローターの回転方向は通常の物と逆 上から見て時計方向である事が分かる(現在のベンセン式を含む殆どすべてのモデルでは反時計方向回転)。チップ(ブレード端部)に近いところにマスバランス用のノーズ・ウェイトが見えるので 木製ブレードと思われる。 エンジンは機体後方から見て反時計回りのプロペラを取り付けたマッカラーであり 燃料タンクや尾翼に書き込んである文字は左右反対になっていない~写真を間違って焼いた訳ではない~つまり正常な写真であって すなわちベンセンの試行錯誤がうかがえる。。


日本語版ジャイロコプター・マニュアル/1969年6月 ライト航空商会発行 


昭和45年5月27日 九州久留米市の 広重重功氏 筑後川河川敷でジャイロコプターの動力飛行に成功。 VWエンジンとトロイヤー・プロペラの組み合わせ。


ロールアウト 
尾翼の製作を始めてから13ヶ月

昭和45年5月31日(日) アパートの部屋では出来なかった全体組立~ローター取付をグライダー格納庫前でやってロールアウト~昨年5月1日に尾翼の製作を始めてから13ヶ月~一応メデタシ。
さわやかな五月晴れの日の陽光を受けたオートジャイロは 我ながらマブシイ がしかし回りが開けているせいか 少し前までアパートの部屋の中で見慣れていたのより一回り小さく感じる。あちらこちらの角度から記録写真を撮って 念のためローターを取り外して エンジンオイルを充填 タンクに燃料を入れて初のエンジン・ランを試みる。 相当回 数 プロペラを手回しクランクして燃料をキャブレターのフロート・チャンバーへ吸い上げる。 加速ポンプ・レバーを指で揉んで燃料をキャブレター内に注入してイグニッション・スイッチ・オン。気合いを入れて勢い良く 始動の為のクランクを数回やると バンと爆発音を発して すぐシュルシュルッと逆回転して停止。 あれ?で 繰り返すと状況は同様である。 一息入れながら考え込んで 調べるとイグニッション・コードの接続が間違っていた。 今度はブルーンと勢い良く始動して回り続けてくれた。 チョークとスロットルを調節しながら 機体の回りを遠く近く 何となく うろついたり腰を下ろしたりして眺め回して 結局 この日4時間10分の慣らし運転をやった。

rollout

ロールアウトしたG6-2DK
 

breakin
初のエンジン・ラン
 
rollouta
オートジャイロと定時巡回の自衛隊員
 

6月7日 エンジン・ブレークイン計10時間。 6月14日 梅雨の入り。 エンジン・ラン 計15時間。 方向舵に左10度のオフセットを付けてターンバックルにセフティ・ワイヤ処理をした。 格納庫前の草むらを走り回ったら NLGのフォーク部分が曲がってしまった~さっそく出た要補強改修事項。


滑走路借用願い

機体が無くなって広々とした部屋。 夜は計器板を作ったり 航空自衛隊岐阜基地の滑走路借用のための書類を準備。 添付参考資料として最近届いたベンセンのマニュアルから選択複写した写真を活用。 関心を引いて是非とも許可を得るべく米軍(Bensen B-8M機)や英国(Wallis Wa-116機)における試用の事にもふれた。




USAF Bensen
Bensen Gyro はUS Air Force も Navy も購入して公式にテストした

 USAFの識別記号は
  X-25A (Gyro-copter)
  X-25B (Gyro-glider)
        Bensen の Manual より

BeagleWallis116
英国陸軍がテストした Beagle-Wallis WA-116


重心測定~ハング・テスト

昭和45年6月28日 エンジン・キャブレターにエア・スクープを取付。 計器板取付。 
目下活動休止中で使用していないH-22セコンダリ ー・グライダーの座席ベルトを借用して取付。 重心 位置確認の為 格納庫天井のフレームから吊り下げてハング・テスト。 本機体に対する許容重心範 囲の基準は今の所は無い(正しくは分からない)のだが ベンセン機の基準を適用して比較すれば 許 容値ではあるがテイル・ヘビー側。 模型クラブが使用している広場に出て走行テスト。 エンジンの調子がおかしくなって変な振動が出た。 調べてみたら 左後方シリンダーのバルブ・リフターが外れていた。 何故だろう? この先フルパワー運転をやらなければならないというのに心もとない。


昭和45(1970)年7月4日
東北大学 学友会航空部設計製作ソアラー CUMULUS 初飛行


ローター始動と滑走テスト

昭和45(1970)年7月5日(日) バッテリーをノーズ部へ移して2度目の重心位置測定ハングテスト~大体こんな所だろうと納得~あとは実際に浮かしてみて 実際に飛んで見なければ分からない。 折からの台風2号の影響で風が強い。 グライダー格納庫前で試してみると ローターは難なく始動してくれる。 ・・・となると 走ってみたくなって・・・。 会 社の駐機場からここへ至る途中に約3mX150m程の砂利道が有って 両側は雑草などの藪である。 ちょっと躊躇したが 滑走願望ことのほか強く 風下へ移動してエンジンと ローターを始動して 座席に飛び乗ってソロソロ走り出す。 操縦桿を中立に心がけながら 少しスロットルを開いて前進。 横風ぎみで 始め操向操作がギクシャクしたが そのうちローターの回転数が上がって生きて来て 100mも走ったあたりでノーズが急に浮き上がって テイルが地面にロックされた格好で減速停止。 パワーをもっと入れれば更に進めるのだろうが 道路はもう先が無い。 足をラダー・ペダルから前輪の操向バーに移しかえてターンして戻る。 このような事を何回か繰り返す内に ノーズが浮き上がると同時に あるいは浮き上がる気配を感じて 操縦桿を前へ押さえる事が出来るようになったが その適切な量がつかめなくて 前輪が地面に付いたり 滑走速度をコントロール出来なくて 道路端の大きな藪につっこみそうになってドキッとしたり。 まぁ やればやっただけ慣れるもので 計器にも目が行く様になって 読み得た最大対気速度は 20mph。 
この調子なら・・・ 正規の滑走路へ出れば・・・ うん 前途は明るい。

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ForFB 033
川崎重工業 岐阜工場敷地内の砂利道にて滑走テスト

上の写真のバック左は対潜水艦哨戒機 P2V-7 右は同じく P-2J


昭和45(1970)年7月7日 航空自衛隊岐阜基地へ飛行場使用許可申請


EXPO ' 70 万国博覧会

昭和45(1970)年7月10日 大阪で開催されている万国博覧会EXPO ' 70 へでかけた。
いろいろ多くの物を見たいのはやまやまであるが 時間は限られている。 的を絞ってアメリカ館。呼び物はアポロ11号が持ち帰った「月の石」であるが自分の狙い目は 「 BENSEN  GYROCOPTER 」 。 
ベンセン社が製作した 純正のそれこそ本物を天井から吊り下げて 数方向からワイヤー・ロープで引いて空中に固定してある。 ローター・ブレードは展示の都合上 少し短くカットしてあるが 電気モーターでゆっくり回っていて 座席には人形が載せてあってオーバーヘッド・コントロール・スティックを握っている。 尾翼もローター・ブレードも金属製そしてローターヘッドも最新型のオフセット・ジンバル・タイプである。
初めて見る マッカラーエンジン付のジャイロコプター ~詳細に眺め回して写真を撮った。

expo70-1
expo70-2

7月12日 スタティック・ポートと配管を変更。 
風の具合を睨んで 例の道路でまた滑走訓練?をやる。 およそ30往復。 
事後の点検で操縦系統のあちらこちらにガタが出ているのに気づいた~要補強。 
トルク・チューブにロック・ピンを追加。 スティック・ロックを追加。 



基地司令の杖

昭和45年7月15日 航空自衛隊岐阜基地の”飛行場運用委員会”へ出席。
13:30~15:30 6月末から準備した資料を添えて 7月7日に申請した飛行場使用 許可に関して出席と説明を求められたもの。 飛行場を使用する関係者~航空自衛隊  海上自衛隊 川崎重工など~が一同に会して月に1回行なっている会議だと聞かさ れた。あまり深く考えず軽く構えていたら大変な誤りであった。 国旗などが掲げられた部屋で 会議の始まりは大変おごそか、 定刻に発声があって参加者全員が起立、足が不自由なようで 杖を付いてゆっくり歩行して入場して来る基地司令(空将補 多田 一男氏)を迎えて そして着席。 この段階で緊張を強いられ さてどうなることやらと思案しながら議事進行を聞いているうちに自分の申請に付いて説明を求められる。 資料に基づいて3分ぐらい話して”よろしく許可をお願いします”。 で 続いて出た質問は「救難体制についてどのように考えているか?」だった。 全く予想もしなかった事でしばらく絶句 なにやら訳の分からない事をしゃべって~室内が一時笑い声で満ちたりして~結局その席では「旧滑走路(900m×30m)を使用 地上滑走は許可する」との返事を得た。
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                <航空自衛隊岐阜基地>


18日 正式な許可書が出た旨の連絡があり その後46年7月(基地司令は 1等空佐 今井治三氏)まで必要に応じて1ヶ月ごとに経過報告と申請を繰り返して 滑走試験~ 飛行試験と順次スムーズに許可を得る事が出来た。
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<飛行場使用許可書>


途中から志水さんと連名の申請になり 飛行場使用許可書には使用の条件(地上支援人員、飛行空域限定)を簡潔に明記した文書が添付されていた。基地からの文書による許可は誠にありがたくうれしい事であり 後で航空局の許可を得る上で非常に有効だった。

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<添付された文書 使用の条件>
          

転倒  前途は明るい筈だったが
昭和45(1970)年7月19日: 昨18日 岐阜飛行場の旧滑走路使用OKの返事が来て早速滑走路で地上訓練開始。朝8時から準備~残っていた宿題~曲がった前輪フォーク の交換作業などをやって 10時頃旧滑走路へ出る。 伴走車はM君。 天候晴れ西からの微風。 今から夕方まで時間はたっぷりある 慎重にゆっくりやろう。 まず滑走路を往復タキシング。 ローターを回さずに ラダー・ペダルやその下の操向バーを操作して長い距離をゆっくり走って操向及びスロットル操作に慣れるのが目的。 何かの拍子に軽いシミー振動が起きて かかとを踏ん張ってやっている内に いつの間にかローターがゆっくり順方向に回りだしている。 滑走路端で大きくターンして戻る内にローターは回らなくなってフラッピング(シーソー)運動をしている。 その動きが大きくてストッパーにぶつかる程になると 操縦桿で押さえきれない位になるので 仕方なく減速停止して また走り出す~その様にして出発点へ戻る。 続けて2回目。 今度は少し速度を上げてラダー・ペダルだけでやってみようと足をラダー・ペダルへ乗せかえて同じように出発する。 ソロソロと速度を上げておよそ200mほど進んだ時 キャビン全体が揺れるような振動が出て シミーだ!と直感して すぐ足を操向バーへ乗せかえ様としたが その前に機体は滑走路を右に偏向して草むらへ入り込んで 今度は段差で減速した右車輪を中心として急回頭して(その時の遠心力で)左側へ転倒した。
 

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シミーを甘く見て 対応が拙かった 最初にスロットルを絞るべきであった。 その前に大き なミスがあった。 1回目から戻って左ターンして2回目の走向は 滑走路中央に移動しないで そのまま滑走路右端を進んだ。  プロペラ破損 左主脚ストラット・チューブ屈曲コックピットナセル上部に割れ 。 ローターはゆっくり回っていてその時の位置が たまた ま機軸に平行で有ったらしく 先端部位に傷が付いたものの派手に曲がったり 地面を打ったときの反動なども無かったが 傷んだ事は間違いない。 幸い怪我はしなかったとはいえ しかし手ひどいダメージを被ったのは自分のハート~幅30メートルも有る滑走路に出たというのに 何やってるんだ(!)。 少し前の砂利道でやった成果の復習をして 慣熟して 更にちょっと先の段階へ進もうとの意気込み ~ 前途は明るい筈だったのに。

 部隊から当直の方がやって来て 「グランド・レゾナンスか?」。  いや実は 「カクカク シカジカ」 みっともないったらありゃーしない。 通常の2翅シーソ・ローターはグランド・レゾナンスは起こさない理屈である。 レゾナンス(共振)と言えばシミー振動も共振だが しかし いわゆるグランド・レゾナンスであって欲しかったなーもー ~ さすれば言い訳も少しはカッコウがついたか?(次のローターにはドラッグ・ヒンジを組み込まなくっちゃ)。

分解や片づけをやって 撤収 午前11時30分 そのような訳で 7月7日付「G6第1号」で申請したジャイロプレーン地上滑走試験は 許可が下りて19日に実施されて 20日付 「G6第2号」文書は不本意ながら 事故&試験中断報告書となった。

なお滑走路端部走向によるキワドイ事故は もう一度有った~710718 危機一髪 トリムタブ  
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  5
ローター・ブレード製作開始
昭和44年(1969年)11月24日。
最後の段階まで層流翼型NACA 8-H-12 (回転翼機用に開発された、HはヘリコプターのH )でやろうと考えていたのだが、ロアー・スキン(下面)はともかくアッパー・スキン(上面)のカーブを出す為の方策が思いつかなくて諦めた。材料として有るのは厚さ1ミリと1.5ミリの樺合板。サイズが3尺×6尺(約900ミリ×1800ミリ)なのでスパン3メートル程のローター・ブレードを作るために合理的に上手にジョイントした上で、必要な厚さは3ミリである。この細長い板を行程のどこかで翼弦方向に曲げ加工しなければならない。坂元さんの図面に有るベンセン・ローターの翼型は、その点非常に簡単で前縁部以外は全て直線で構成されていて、結局これに倣うことにした。

8h12b
  <NACA 8-H-12>
koksect2
  <G6 Tip>
skmsect
  <坂元Ys-3Mの図面から>


最初は板取り作業。
昭和44年(1969年)11月24日、食卓に材料を載せて電気丸のこでカット~とてつもない騒音、近所迷惑間違いなし~びびって冷や汗をかきながらの作業。おがくずが飛び散ってその量が馬鹿にならない。
27日、合板のスカーフ加工。キャビン・サイドフレーム加工製作。 
28日、志水さんが訪ねて来た。ブレード製作作業スペース確保の為機体分解。
29日30日、砥石、シャコ万等を購入。ロアー・スキン・ジョイント接着作業。
12月1日、ブレード・アッパー・スキン、コア材ジョイント接着作業
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 <ローター・ブレード作業台>
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 <ブレード外板スカーフ加工>
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 <接着硬化促進用電気毛布>


サブ記号~2DK 
過日11月11日、東京出張の折りに置いてきた写真の1枚が載った「ライト航空 ニュース」No.45(1969.12)が届いた。「2DK!サラリーマンの住宅として典型的な団地アパートの3階。4帖半の畳の部屋、そこで1機のジャイロコプタが次第に出来上がりつつある。・・・・・」との内容。尾翼の塗装は進んでいたが、降着装置もエンジンの取付もまだ仮の状態。ローター・ヘッドも操縦系統も未完、ローター・ブレードもこれからの段階の写真。しかしコックピットの中に乗り込む事は出来たので嬉しくてしょうがないし、またこのように形になると次のステップへ向けて意欲が出てくる段階だった~最も、ただ眺めて過ごす時間も結構長かったりして。そのように、まだまだ
先の行程が残っている状態ではあるが、発行者石川昭氏の記事は「2DK」を強調した好意的な取り扱いで、後で型式記号名称を決める時のヒントとなり、最終的に型式「G6」のサブ記号として付加して垂直尾翼に書き入れた。

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2dk

報道の本質 
昭和44年の年末12月28日。愛知県一宮市へ尾関浩章氏を訪ねた。小規模ではあるが鉄骨建設業の一城の主。以前ジャイロ・グライダの曳航を手伝った事があった。氏はその後エンジンを入手して、更にフロートを取付けて水上型ジャイロコプタに進み、木曽川に於けるテストの模様が話題になっていた。尾関さんの考え方は「自分は作るのが楽しみ~初飛行の栄冠は若い方に~自分が操縦しては欠陥など問題点が客観的に分からない」というもので、自分でも試走程度の事はやるけれど 本格的に浮上を目指す時は誰かに頼んでいた。今回のテストも例によって志水さんがテスト・パイロットで始めたのだが、残念ながら途中でエンジン・ストップ、原因調査の為にフロート後部に乗った人の体重でバランスが崩れて、転倒水没したそうだ。 その時の様子が「毎日グラフ」誌に大きく載ったのだが、驚いたことには事務所の上がり口にその号が積んであって。その高さおよそ50cmも有っただろうか。訪れる知人友人、仕事の関係者に差し上げているのだそうで、私にも一番上の一冊を取って進呈してくれた。ごく一般の者に取って、大失態とか極端には犯罪とかの破廉恥な事で無ければ、何かが話題になって新聞雑誌あるいは放送などのメディアで写真や活字となって流布されるというのは、全く晴れがましく嬉しい事であるのは否定出来ない事実で理解出来る。何でも言ってくれ、(あなたのジャイロの)お手伝いをしてあげるとおっしゃって、最新式の坂元式ローター・ヘッドが1つ有るけれど要らないか?との事。非常に洗練された頑丈な仕上がりでは有ったが、残念ながらオフセットが付いていない。それだけで私にとっては興味が無く、これはお断りした~自分流のオフセット・タイプは現在製作手配済みである。電話連絡を取ってくれた志水さんがしばらくして現れて、報道関係者~マスコミとの対応が話題になった。尾関さんは何かをやる度にあちこち予告連絡をしていたらしく、志水さんは取材に来た方々と親しく話する機会があって、報道関係者にとっては「成功しても失敗しても、どちらでもかまわない、記事になる、ニュースである」との事であった。御用メディアはともかく それは報道の真の姿なのであろうし納得出来る。失敗しちゃった流さないで!とは当事者にとっては切実な願いで有ることも事実なのだが。しかし報道する・しないも含めて、表現は全てペン等の使い手の裁量によるのであるから、世の中のシリアスな事象に関しては怖い側面も有る。スキャンダラスな記事と持ちつ持たれつの関係にあるようにも見える芸能界と週刊誌等とは別の次元の話だ。メディアとの対応には注意しよう、少なくとも感情を害してはいけない、正しく評価して貰う為には、用心もしなきゃいけないと言うのがこの日の結論。一方で尾関さんから、本業に影響するほどに熱を入れすぎて、従業員との関係が一時うまく行かなくなって、事業が左前になりかけた事もあって、反省して心してやっているとの率直な打ち明け話も聞けて、これは立場が違う自分も職場や家庭の中で注意しなければいけない事でも有った。 ともあれ広い作業場、いろいろな工具や機械関係の設備と共に機動力は全くうらやましかった。


石崎さんの事故 
昭和45年(1970年)1月1日。残念なニュース~下関市の石崎竜人さん操縦のジャイロ・グライダが墜落した。4日に志水さんが訪ねてきて電話連絡等で知り得た事故状況を教えてくれた。座席が一つしかないグライダのローター・マストの後ろに、知人をマストないしはシート・バック・フレームにつかまる形で乗せてロープ曳航飛行、途中で姿勢を崩して滑走路に落ちて2人が死亡したのである。「離なせ!」の声が聞こえたとかの話も出て、そういえばマストの両サイドには操縦用のロッドが取り付けてあるのだから、関係が有ったのかも知れない。本当の原因は分からないが、しかし非常にショッキング~昨年ついこの前(44年10月19日)ジャイロコプタで動力飛行に成功(おそらく坂元さんに次いで2番目)したニュースと写真が週刊誌などで報じられて、全国の同好の者が刺激されたばかりなのだ。石崎さんは飛行機の自家用操縦士であり、ジャイロコプタ(坂元さんから譲り受けた機体)で関門海峡を飛ぶ夢を持っていた。

1月2日~3日、エンジン・マウントFWDプレート製作取付作業。
4日、志水さんが訪ねて来て、話題は下関市の石崎竜人氏の事故。当面の関心事はローター・ブレードの構造。機体の分解を手伝ってくれた。
5日、電気かんなを購入。11日、木製桁テーパー加工~削りすぎて、15~16日、補正のためスペーサー接着作業。
17日、 No.1ブレード・アッパー・スキン接着。
昭和45年(1970年)1月18日 中津川市 安江さん宅を訪ねた。東海地方では早くからジャイロにかかわっていた方で、航空ニュース等で話題になっていた。自動車に同乗させて連れて行った長男が、夜遅く帰宅したとき具合が悪くなって大変心配した。
19日、No.2ブレード・アッパー・スキン接着作業。20-23日、ローター・ブレード前縁加工、手カンナ使用荒削り。
23日、偶然だったが、英国 Campbell Aicraft社のCricket Gyroplaneの紹介TV放送を見た。24日、ローター・ブレード・コード(幅)トリム作業。25日、ローター・ブレード・テンプレート修正作業。


ローター・ヘッド部品 
昭和45年(1970年)2月3日。外注していた機械加工部品の最後の物が出来上がってきた。精度を必要としない部分の加工とジンバル部分は3月に自分でやる計画。11日、ローター・ハブプレート、シーソー・ブロック組立穴加工~ローター・ヘッド仮組立。
head part 3
head part 2
head part 1
<ローター・ヘッド用機械加工部品とメイン・ベアリングやニードル・ベアリング>
heada<仮組立>


昭和45年2月8日(日)。出産のため家内と長男を連れて帰省。


Bensen Manual
昭和45年2月9日、岐阜へ戻る途中ライト航空へ寄って、ローター・ブレード用マスバランス・ウェイト及びベンセンのジャイロ・グライダ及びジャイロ・コプタのマニュアルを注文した。図面はいらない、マニュアルだけ欲しい旨話すと、普通は逆で図面だけ欲しい人が多いのだそうで、‘変わってますね’との事だった。グライダーもエンジン機も両方の和訳版は既に持っていたのだが、操縦方法、操縦桿の操作方法は気になっていて、これだけは厄介でも、なんとか原文で読んでおきたかったし、和訳版では多くの写真がイラストに代えられ又は省略されていたが、これも元の写真で見たかった。なお省略などが有るにせよ、和文で書かれた物ほど有りがたい物は無い。特別な関心や疑問などがあれば、その部分だけ原著に時間を割けば良い訳だから助かる事この上なし。ウェイトは2月22日、マニュアルは5月26日に届いた。


夢のまた夢~城廻り 
昭和45年(1970年)2月14日、志水さんが彼女(ゆりさん)を連れて現れた。何度も我が家を訪ねて来てくれて、もちろん話題はジャイロなのだが、この日は珍しく彼女を紹介してくれた。後で、この年の暮れ滑走路に出て訓練が始まった時は、良きアシスタントであった。ジャンプ飛行が始まって、安定して少し高く飛ぶようになった時などは、滑走路の中央に仰向けに寝て写真撮影をしたりして、たまたまその場に見物に来た会社の人などはびっくりして、彼女は何者だ、プロのカメラマンか? なんて事もあった。また私が子供を連れて行った時などは、その面倒をみてくれたりした。当時のジャンプ飛行中の写真で、志水さんが飛んでいる所のは彼女か私が撮ったもの、私が飛んでいる所はやはり彼女か志水さんが撮ったものである。志水さんが訪ねて来れば、まぁ話題は空~ジャイロ談議に終始するのだが、その当時の夢は「城廻り」であった。岐阜県各務原市にある航空自衛隊岐阜基地から、西北西方向9kmの位置、岐阜市長良川沿いに金華山岐阜城があり、東方向6kmの位置に愛知県犬山市木曽川沿いに犬山城があって、これらを自作のオートジャイロで空から訪ねて天守閣の回りを旋回して戻って来ようとの計画である。岐阜城は途中に市街地が多く、許可を得るのも困難と躊躇されたが、飛行場のすぐ南側が木曽川なので、これに沿って進めば天守閣上の旋回はともかく、犬山城へは相当近くまで接近出来そうだった。私に関しては夢のままで結局実現しなかったのだが、ともあれ、それは飛べる様になってから先の話であって、当面は機体をまとめ上げて、滑走路に出す事が先決である。で、話の最後はいつも同じで「浮くでしょうか?」と志水さん。私「浮くに決まっている、外国の体格の良い人たちがやっているのだから、浮かない筈が無い、その後の事は何とも言えないけれど」。志水さん「僕は重いから不利だ~浮かないときは服を脱ぐ~パンツだけでやる」。私達の自作航空機の現実はそのような段階で、「城廻り」は夢のまた夢。
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形は最終段階  
昭和45年(1970年)2月。ローター・ヘッド、操縦系統、エンジン及びプロペラなど仮取付状態だが形は最終段階。タンスの引き出しは、板を乗せれば効率的な部品・工具台。ジンバル・ブロック半割加工。ミシン用椅子を倒して材料をCクランプで固定して、金ノコで切断。

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<志水次郎さん 拙宅にて>


後年発売された雑誌記事に、「なにせ、部屋のまんなかにジャイロコプタが座っているんですから、お茶を出してくれるのも機体ごしでしたョ」とあった


2月16~21日、TKK(東京航空計器)出張。 
22日、マスバランス・ウェイト着。23日~ 25にち、後縁仕上げ作業。26日、ラダー・ボトム加工。29日、燃料タンク及びキャビン塗装。上半分を白、下半分を赤(スカーレット)のツー・トーンとする。
3月1日、ラダー・ボトム加工。ローター・ブレーL..E..用テンプレート製作。エンジン・マウント・プレート軽減孔作業。2日、マスバランス取付加工作業。プロペラ中間塗装とバランス作業。4日、走向装置、排気管溶接依頼。プッシュ・プルロッド端末加工。3月5日、スティック・ピボット(支点)加工。6日、プロペラ・ハブボルト加工。
8日、ローター・ヘッドのジンバル・ブロック半割加工。TK出張の為上京。
10日、ローター・ヘッドのジンバル・ブロック半割加工。
11日、ヘッド・プレート加工。

昭和45年(1970年)3月11日 次男 誕生 

3月13日、マストの長さの最終検討をしてカット~機体全高195mmとする。
(Bensen B-8M は190mm)。14日、ヘッド・プレート取付。15日、操縦桿完成。
ロッド取付。16~18日燃料タンク取付加工。20日ピトー・スタティック系統配管。
21日、MLG緩衝スプリング取付。操縦系統バイアス・スプリング取付検討。 
26日、燃料系統配管作業。
3月31日、TKK出張中に「日航よど号ハイジャック事件」のニュースを聞く。


名前は「ANTARES」  
昭和45年(1970年)4月の始め、さそり座の主星の名前を採って「ANTARES」と命名。‘ANTARES’文字型紙製作、塗装(スカーレット)。
4月9日、ローターブレード・テンション・ストラップ・プレート製作依頼。エンジン・スイッチ用スナップ・スイッチ購入取付。4月10日、志水さんが訪ねてきた。4月12日、プロペラ・ハブボルト回り止め加工。4月13日、ローター・ブレード・テンション・ストラップ・プレート4枚。さび止め塗装。


家族が増えて  
昭和45年(1970年)4月18日帰省。翌19日(日)、新しい家族、次男 精二と家内及び長男 哲男を郡山から岐阜へ連れ戻した。これで我が家は4人家族となり、赤ん坊がいるのであまり騒々しい作業はやりにくくなった。やむなくうるさい電動工具を使わなければならない場合は、従来もそうであったが皆に一時退去願って、外で散歩などをしている間にやっつけたりした。しかし部屋も一段と狭くなってマイ・プレーンも大きな顔をしてふんぞり返っては居られない。1日も早くここを巣立たなければならない状況になった。
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<昭和45年 左:長男2才7ヶ月 右:次男0才>

配線作業  
4月26日夜、志水さんが同僚を連れてやって来て、「配線作業をやらせて欲しい」という。即開始してテキパキやって「自動チョークは不要だからバイメタルのスプリングは解除しておきました」等と説明して、お茶もそこそこに速やかに引き上げて行った。彼らは自動車整備が専門、専用工具一式を携えてやって来たのだが、どういう風の吹き回しかと思案した。後日、5月14日、志水さんが現れて「1600ccのフォルクス・ワーゲン・エンジンが手に入ったプロペラ・ハブの図面と現物を貸して欲しい」というので希望に応じた。なるほど先の配線作業はそういう事であったかと、そこで合点がいった。
4月27日、社内グライダー部会で写真を公表、アドバイスを受ける。ローター・ブレードの捻り剛性の事、重心位置の事、トリムの事。
4月30日、ブレード・テンション・ストラップに4度のプレ・コーニング角を付けて取付孔あけ加工。

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ローター仮組立  
昭和45年(1970年)5月1日、ローター仮組立。直径6.3mのローター・アッセンブリは、玄関からトイレに至る廊下とダイニング・キッチンの流し台と食卓の間にちょうど収まった。バランス・チェックNG、パターン・チェックOK。
5月10日、バランス調整が完了。ローター・アッセンブリ重量 20kg (19.8kg)。 (ベンセン式より重い)。

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レーシング・ストライプ  
5月2日、上下を白赤に塗り分けたキャビンの塗装が、イマイチ大味な感じで、何かアクセントになる物を書き加えようと考えていた頃。たまたま名古屋市で目に止まったヘルメットの白ベースに赤いストライプの組み合わせを見て、おぉこれだ、これですよ、機体の塗装もこれに合わせることに即決即断。でもって「衝動買い」。安くない買い物。レーシング・ストライプと通称されている事を後で知った。
コックピット・エンクロージャの他に最終的に、ローター・ヘッド・カウリングにも統一 ストライプを入れた。
後に1990年代、マイクロライト機 ジャイロプレンと続けて同じヘルメットを使用したが、エッジのパッド、中のクッション材や固定バンド等さすがにくたびれてヨレヨレ。
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全体組立   
昭和45年5月21日。午前中、航空免状更新のための身体検査を受けた。
午後、ローター・アッセンブリの搭載を含む完成状態の写真を撮るべく、部屋の中での全体組立を試みた。ローター・ブレード1枚を取り付けた後、2枚目は四苦八苦したあげく、ブレードを無理に撓ませなければ無理である事が分かり諦めた。ちなみにローター直径6.3m、機体の全高1.95m、6畳間と4畳半の部屋の間にある鴨居の高さが1.8m。車輪を取外したり、ローターをベランダへ突き出す方法もあったが、これは目的外。


機体脱着?  
昭和45年5月22日。アパート室内に於ける最後の分解作業~これまで製作進行状況に合わせて、家財道具や何かの移動や配置換えをやりながら、何回組立分解作業をやったことか~最初に重いエンジンを仮搭載するときには、少し考え込んだが思いついてみれば、別に難しい事ではなかった。60kgものエンジンを持ち上げて浮かしている間に機体のマウント用の4ヶ所の孔位置に合わせてボルトで固定するのは大変困難であるが、逆にエンジンをテーブルに載せてしまってから、これに対して垂直尾翼を取り外した状態の機体を取り付ける事は、機体=胴体部分は大変軽いので実に簡単。その後、機体を少し浮かしてテーブルを取り除いて、プロペラと尾翼を取り付ければオーケー。分解作業は全くその逆をやれば良い。エンジン脱着ではなくて‘機体脱着作業’。
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  4
掘り出し物~対気速度計  
9月7日、事故処分KH4ヘリコプタJA7X5X (中X本X空)の一部の計器を入手、簡単なテストをしてみると、対気速度計が使えそう~掘り出し物である。

フライング・ポン~ゆるされざるホーム・ビルダー  
どちらかと言えばスポーツ航空を対象にしたジェネ・アビ航空雑誌があって、誌名がくるくる変わったりしたが、中に「フライング・ポン」というタヌキ(?)さんが主人公のマンガが連載されていた。
pom< フライング・ポン(部分)「スポーツ航空」改題「翼」誌より >

以下は、当てにならない記憶によるものだが、ポンさんのキャラクターは非常にとぼけた憎めないもの。航空機墜落事故発生のニュース。トラックがブロローッと現場に急行して星明かりの下で解体作業。使用に耐えそうな部分をゲットして持ち帰る。その様な事を繰り返した末にまとめ上げた、ポン式自作航空機。「木の葉」を耐空証明書に変える幻術なんて、姑息な手段を選ばず、殊勝にも当局の検査官を招いて審査を受ける。主翼がセスナ風だったり、尾翼がF104に見える機体を見て怪訝そうな表情の検査官。 「まぁまぁ堅い事言わずによろしくお願いします」ってな感じで、飲み物などを振る舞うポン。  ジャイロプレンの部品と材料~このポン方式も悪くないなぁ。
9日、勤務先近くの一般顧客向けの非鉄金属材料業者に、たまたま管理されたアルミ合金17Sの棒材の在庫があって入手した。ローター・ヘッド用。NLG(ノーズ・ランディング・ギア)溶接依頼。11日、NL溶接完了、MLG(メイン・ランディング・ギア)用スプリング、ラダー・ペダル・リターン・スプリング購入、プロペラ・ハブ・ボルト購入。ローター・ヘッド用ベアリング注文。13日、NLG取付穴加工(下側)。14日、NLG取付穴加工(上側)、ラダー・ケーブル切断、ターン・バックル組み合わせ、ペダル・ラグ取付。15日、ピトー・サポート(ノーズ・フレーム)取付、ラダー・ペダル・スプリング取付、ケーブル経路とプーリー位置検討、離型剤入手。

16日~20、石膏型仕上げ完了 
4畳半の部屋の片隅に立っているFRPコックピット・ナセル製作用 石膏モールド。信仰/崇拝の偶像ではないが、やはり異様である。もっとも部屋の中の状態そのものが異常。石膏を水で溶いてそれが硬化する時は化学反応で熱を出すのだが、その後は放射冷却だか何か知らないが、これがあるだけで部屋がひんやりした感じとなる。
21日、石膏型に離型剤塗布、NLGシャフト・スペーサ挿入、ラダー・ペダル・ホーン取付、ラダー・ケーブル長さ調節。22日、ラダー・ケーブル端部編み作業、プーリー取付。
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FRP 作業 煙と異臭  
昭和44年(1969年)9月23日。初めてのFRP(ファイバーグラス・レインフォースド・プラスティック=グラスファイバー)作業。まずは試しにと小さな容器にポリエステル樹脂を取って硬化剤を入れて掻き回す内に白い煙が出てきた。うわっ!これでいいのか?、迷って考え込む間も有りゃしない、それが急にひどくなって異臭を放つ、息を止めて器をしっかり持って、しかしビクビクしながらベランダに持ち出す。煙はモクモクとしばらく続いた、その流れに沿ってやはり異臭を撒き散らした筈である。お隣さん、今夜のおかずはサンマだな、お!ペンキ作業を始めたな、なんていう程度を遙かに越える。ご近所の方々に何か拙い影響はなかっただろうか?。幸いと言って良いかどおか、直接にも間接にもクレームは無かったが申し訳ありません、すみませ~ん。テストとて、適当に硬化剤を入れた結果それが多過ぎて異常反応を起こしたのである。内輪では有ったが騒ぎがおさまった後、器の樹脂は熱を持っていてひび割れした状態で茶色に固まっていた。大失態の巻き、今時なら物騒な騒がれ方をして、厳重な取調べを受けるだろう。近所迷惑と言えば、第1に音~騒音。電気ドリル、電気丸のこ、電気かんな~ドリルでさえ当時の電気掃除機の音を遙かにしのぐ~他に物を移動したり組立分解に伴うドタバタ。第2が一般的でないゴミ、チリ、ホコリ。漂って進入したであろう~木屑、アルミ粉末、鉄粉、石膏粉末、ガラス繊維。第3が異臭と煙害。ラッカー塗料の溶剤(シンナー)の臭い~これを芳香と受けるムキも有るので短時間ならともかく~前述の様な煙付き異臭では全くひどすぎる、重ねてごめんなさい。とにかくコックピット・キャビンのボトム部3プライのハンド・レイアップ作業が終わり、この日遅く離型した。但しこれは性急に過ぎた様で部分的にひどくベタベタして、一部破損させてしまった。しかし、でっかい部品が形になった。
24日、FRP修理 (キャビン下側~ボトム部)。25日、ボトムFRP仮取付。
10月2日、3日、4日、6日~7日 FRP作業。
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 <キャビン・ボトム>
cab top
<キャビン・トップ>
cab top botom
<キャビン結合>


尾翼は応力外皮構造 
昭和44年(1969年)10月8日。方向舵はバランス部の他は羽布でカバーする計画だったが、考え直して全合板張りとする。ラダー・ホーン取付部の強度とその部分から前縁部のトーション・ボックス(抗捻筒)へ力がスムーズに伝わるかどおか不安が有って、どの様に補強材を入れれば良いか迷った末に、更に羽布材料とドープ塗料の入手の事も懸案事項だったので計画変更、思い切って合板張りとした~材料(航空機用樺)は十分有ることだし。これで垂直尾翼全体が、一応、応力外皮構造(stressed skin structure ストレス・スキン~殻張り構造)になる訳だが、表面を指で弾くなどしたときのビィーンとした、羽布張り構造独特の感触に対する潜在的願望は満たせなくなった。また多少の重量増加よりも、1ミリ厚さ合板使用による拙い工作の表面の波打ちの方が気になった。羽布の代用ということで我慢しよう。MLGブレース端部加工。

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 <ラダー外板貼付け>
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<ロアー・ヒンジ取付部>
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<アッパー・ヒンジ取付部>

9日、MLG ブレース仮取付。10日、機体を組立てた状態で置けるように部屋の模様替え。11日、ラダーLHスキン貼り付け、エンジン・スラスト・プレート、マウント穴あけ、マウント用ゴム・ブロック切り出し、エンジン仮取付(テーブル利用)。13日、空気ポンプ購入。志水さんの訪問を受ける。


石崎竜人氏 動力飛行 
昭和44年(1969年)10月19日、下関市の石崎竜人氏、自衛隊小月基地で動力飛行に成功。坂元氏から譲り受けた機体で、おそらく日本で2番目の成功。エンジンはマッカラー。

10月21日、ドリル・スタンド改修。22日、フィン前部金具取付部加工。23日、金具製作。25日、機体分解。29日、エンジン後部ブレース作業。エンジン・マウントがまとまる。ラダー・マスバランス・ホーン製作。
昭和44年11月2日。志水さん。大橋さん。矢野さん兄弟が訪ねてきた。キャビンFRPトリム作業。キャビン後端フレーム製作。3日、計器サポート、スロットル・レバー取付。4日、風防(透明プラスティック板)切断。5日、マス・バランス鉛充填作業。
9日、キャビン・トリム作業。イグニッション・コイル取付ブラケット等。
11月11日。東京出張のついでに、ライトKKに寄ってローター・ハブ材を購入。 これは勤務先の資材部門へ文書で頼んでいたのだが入手出来ないでいた背景があった。ライトKKの物は、かの坂元さん経由と聞いた。持参した製作の状況を示す写真は喜んでいただけたようで、ベンセン・ジャイロコプタB-8Mの日本語マニュアルをサービスしてくれた。15日、風防接着。NLGブレーキ・メカニズムなど。 


ローター・ヘッド図面完成  
昭和44年(1969年)11月19日、ピッチング方向のオフセット量を幾らにするか、決定に手間取ったローター・ヘッドの図面が完成。20日、ローター・ヘッド加工依頼。
 
23日、一宮市へ志水次郎さんを訪ねた。場所は勤務先の自動車整備工場。坂元さんの図面を元にマスト、キール、アクスルが組み立てられた状態。エンジンが未入手なのと、尾関さんの手伝いや何かで楽しめるので自分の機体はストップ状態。長い間このような形で放ってあるとの話。
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  3
アポロ11号 人類初の月面着陸 
昭和44(1969)年7月21日。この日名古屋市にてポリエステル樹脂を購入。間に合うようにとの予定で出掛けたのだが、少し遅れて帰宅した時、アポロ11号の宇宙中継が行なわれていた~アーム・ストロング船長が月面を歩いているところだった。前々から、自分の飛行機はこの月面着陸成功と競争するなんて吹聴?していたのだがあえなく負けた。相手は国際的な宇宙開発競争を背景とする国家プロジェクト、ま、しょうがないか。


石膏作業 
7月27日~31日、コックピット・ナセル製作用石膏型の枠組み製作・接着組立。8月1日、ベランダで石膏作業。水で溶いた石膏を、固まるのと競争で枠組みにかぶせて行く。住居にはどう見てもふさわしくない真っ白な固まり、異様な姿で有る。
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<手こぎボートの骨組みを伏せた様な石膏型>

8月2日、主脚金具胴体側穴あけ作業。操縦桿溶接依頼。3日、主脚支柱組立、操縦桿組立。4日~12日、プロペラ仕上げ作業。石膏型仕上げ~布ヤスリや紙ヤスリで平滑な曲面になるように削り落として行く。量は、ボリュームは知れているのだが木工屑よりひどい細かい白い粉、畳の目に入ると始末に負えない。粉末が風で飛んで他の方々の家の中へ飛び込んでは非常に拙いことになるので、この作業をベランダでやるわけにはゆかない。もともと居間などでやる作業ではないのだが、しかし少し辛抱すれば良いのだ、やるしかない。13日、プロペラ穴あけ、ハブへ仮取付け。14日~19日プロペラ仕上げ、この頃はカンナと布ヤスリ紙ヤスリを併用。2.2kg。

意気に感じて 
8月20日、ローター・ヘッド材料入手。細部寸法未定なるも計画段階のローター・ヘッドのヨークに使用する為に手配していた2024T4 4.5インチ径丸棒材。~航空機製造会社に勤務しているとはいっても、部品や材料の入手に関しては個人的には(そうでなくとも資材部門の方々は図面に指定された部品材料の調達と、中には官給品目もあって、それらの管理には大変な苦労があったと思われる)非常に困難な状況の中で唯一入手出来た正真正銘の規格材料~「意気に感じて」と云って手渡してくれた~有り難う。
23日、プロペラ下塗装。

志水次郎さん ロッド曳航 
昭和44年(1969年)8月24日、偶然の出会いだった(と記憶する)。バタ臭い顔のハンサム長身の青年、志水次郎さんを連れた一宮市の尾関浩章さんのジャイロ・グライダのロッド曳航試験を手伝うことになった。この出会いのいきさつが良く思い出せない。偶然?岐阜基地の北口で?ジャイロを積んだトラックを見かけて?。近辺の人で例のライト航空ニュースに既に登場していて、訪ねた事が有ったのは岐阜市の坂さんだけ。尾関さんも志水さんも未登場、坂さんの所でも話題として出なかった。だから志水さん達から見ても同じく偶然だったと思う。
初めて見るジャイロ・グライダとそのローター・ブレード。ブレードは綺麗に暗緑色塗装して磨きあげてあるけれどその翼型断面を見てびっくりした。これでも翼なのか ほんとにこれで良いのか?。計画した自作航空機(モーター・グライダ)に使用するべくこれまでに調べていた新しい層流翼型(Wortmann FXなど)とは勝手がまるで異なって、前縁部以外は直線で構成されているシロモノ。それがベンセンの「G何とか型」という、工作容易をねらったものである事はずーっと後で知った。ともあれ志水さんがパイロット、私が曳航ドライバー、年輩の尾関さんが監督?でロッド曳航試験兼訓練が始まった。場所は航空自衛隊岐阜基地の中にある旧滑走路。尾関さんが手でローターをスタートさせてライトバンの後ろに飛び乗り、同時に走り出す。有線ヘッドセットが大変役に立って+5km/hごとに連絡してルーム・ミラーを見ながら慎重に段階的にスピードを上げていった。そのうち浮上するのが見えてアクセル・ペダルの力を抜いて速度を落とす。機体が沈んで接地するのが分かる。速度を維持して欲しい旨の連絡があって、その通りにすると浮上して安定してついてくる。ワンダフル!。少し加速したりして

良い所、リラックス出来る所を見つけて何回も滑走路を往復。要領がつかめたところで曳航ドライバーが尾関さんに変わって私はライトバンの後ろに乗って見物。志水さんは操縦にすぐ慣れて全く危なげが無い。心地よいローターの回転音を聞きながら見ていると、左右に軽くバンクを付けたり、上げたり下げたりいろいろやってステック操作の感触と反応を試しているようだ。短時間の手放しもやってみせた。見事見事!。パイロットが尾関さんに代わって曳航は志水さん。怖がる尾関さんを、青年がマイクで上手に誘導指導してついに浮上。おかしくない飛行。カメラのシャッターは私で、後で尾関さん宅を訪ねた時には大きく引き延ばした写真が飾ってあった。ただし角パイプ製の曳航ロッドはなぜか写っていなかった。御本人も全く正直で悪びれず、私たち仲間も気持ちは良く分かる事で、皆で楽しく笑ったことだった。尾関さんが志水さんを最初 ‘うちのテスト・パイロット’というような紹介をしたものだから、そしてこれは全く的外れなのだが、彼の風貌から受けた初印象のせいもあって、私が当初この人は飛行機乗り~パイロットであるか、少なくとも経験が有って尾関さんから頼まれてやっているのだなと勘違いした青年~志水次郎さん~正しい名前や生い立ちを知ったのはもっと後のこと。‘生い立ち’に付いては専属?テスト・パイロットを依頼して付き合っていた尾関さんも‘恥ずかしながら、今まで知らなかった、気にもしなかった’と言った。なにしろ、通常は名古屋弁というか岐阜弁というかそのあたりの地方弁を流暢自然に話すので、さもありなんと思われたし、志水さん自ら‘黙っていれば外人で通る’といい、大変もてる様な口振りで実際その通りだったと思う。自分が試乗するチャンスは無かったが、この時初めてジャイロ・グライダ/オートローテーションに実際に関わった事が良い経験、あとあと役に立ったと考える。この時はローター・スタートや何かで手こずった記憶はない。近くにジャイロの仲間が出来てお付き合いが始まって、この年志水さんは私のアパートを4回訪ねて来て、私は志水さんと尾関さんの所をそれぞれ1度訪問した。

8月25日、ローター・ヘッド計画図完成。


山裾の社宅 
岐阜県各務原市須衛、市の北端、山裾に建てられた4階建の社宅。電話線が引かれていなかった事と交通の便を除けば、恵まれた環境と言えた。拙宅は3階の2DK 写真の丸印のあたり。左の山を越えると刃物で有名な関市が有り、夏には途中の田圃でホタルを見ることができた。
8月28日、志水さんが初めて(3階137号)を訪ねて来た。自動車整備士の彼は映画館のニュースで水上型ジャイロ(グライダ?)を見て以来関心を持った、機体は勤務先の工場にあってメイン・フレームを組んだ段階であるが製作はストップしている、同じ尾張一宮市に住んでいる尾関さんと知り合って、尾関さんの自作機(ジャイロだけでなくいろんな機種に手を出していた)にテスト・パイロット役で付き合っているとかの話だった。岐阜市の坂さんの事は知っていた。

28日、ローター・ブレード作業台にする合板を注文。
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ローター・スピンドル製作図面 
31日、ローター・スピンドルの製作図面完成。この図面は、アパートのちょうど真下の(2階、日頃家族ぐるみで親しく-麻雀も-お付合いいただいた、一方騒音等で大変ご迷惑をおかけもした)方の目に触れる機会があった。その方面の専門家 福元將二さんで、精密加工に関する精度の訂正を兼ねて書き直してくれ、更に加工依頼もやってくれた~以前には重いエンジンを階下から移動する時も手伝ってくれたなどなど何かにつけて大変お世話になった。ウェブ・サイトを作るについては整理が悪い古い写真などを探しながらやっているのだが、前から所望されていた息子さんが幼い時の、部屋でジャイロのキャビンに搭乗している、懐かしい写真のネガが見つかったのでお送りした(平成13年3月)。 31日、ローター・ハブ図面完成。

坂元式ジャイロコプタ ピカロの図面  
9月5日、志水さんが再び訪ねて来た。坂元機の図面を譲る、コピー代金 ****円だという。話を聞いてみると驚いた事に「第2原紙」を持っているという。自分は品行方正でもないし行儀も悪いし、まあ人並みの俗物であって(現在のウェブ・サイトからして)著作権云々言える立場ではないのだが、当時勤務先の事業部がやっていた主な仕事は外国製航空機のライセンス生産であった。平たく云えば設計図と付随する技術文書を購入して、生産販売の権利を得ていた。安くない外貨を「紙等に記載されたノウハウ」に支払っていた。従って社内でそれらの取り扱い管理は~自衛隊向けの仕事=軍需という背景もあって~とりわけ対外的には厳重であったもっとも、他社へ出張すれば逆の意味で管理?される立場に立たされたのであるから、企業戦争の一つの姿でもある)。そのような環境の中で職務に就いて生活していたものだから常日頃無関心ではあり得ない事、真っ先にギョットしたのである。彼が云うには関心が有りそうな人に声をかけて希望者に分け与えている、元々は**さんから借り受けた図面で、「元は取らなきゃ」という。フェアでない何か腑に落ちない割り切れないものが有ったが、彼は需要と供給の関係を、実状を良く理解してやっているらしい。自分と比較すればハングリー精神旺盛、きれい事?にとらわれず、機会を機敏に捕らえてはいろいろとアルバイトに精を出していた様で、後年一緒にオシコシ・ツアーに参加した時も、友人知人からの注文の品々の他に、仕事がらみのお客さんを離さない為の多少いかがわしいモロモロに関心をはらって入手していた。そしてそのような事をニコニコしながら悪びれることなくフランクに話すのである~ジローさんジローさんとみんなから親しまれた所以でもあり、そのような才覚のカケラでも持っていれば自分の人生もかなり異なったであろうなどと思う。ともあれ日本で最初に成功した坂元義篤氏のジャイロコプタの図面が目の前に有って、私も参考資料として供給を受けないハズがない。結局、ローター・ブレード断面(翼型)を参考にする結果となり、最終的にブレード全体の構造検討と製作に役立った。図面は氏が機械関係の技術者で有ることを示す、細部も良く分かるもので、東急車輌KKの書式にJIS製図規定によって描かれていた。後年ベンセンの図面と比較する機会があったが、ローター・ヘッド以外は基本的にはベンセンB-8Mをメートル制に直した感じの物だった。ローター・ヘッドは氏独自設計のスピンドル・タイプであり縦方向~ピッチング方向のオフセットは無かった。
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  2
製作開始~最初は木工  
昭和43年(1968年)12月に入手したフォルクスワーゲン・エンジン(1500cc53馬力)を搭載するオートジャイロG6型の計画図が完成。図面とはいうものの入手可能な部材を使用する事を前提とした大雑把な3面図、プラス思い付き段階の各部のスケッチ。細部は製作と平行して検討決定する事にして~さもないとマイ・プレーン何時の事になるか分からないから~とにかく何かを形にしてみようと、昭和44年(1969年)5月1日製作開始。最初は木工部分。木製モーター・グライダーを計画していたので一部の材料は入手済み。厚さ1mmと1.5mmの航空機用樺合板はごっそり有る~2月に‘新田ベニヤ’から届いていた。プロペラの材料は相当前からベランダで乾燥させて重量管理?と称してヘルス・メータで量った重さをグラフに記入していたし、細くひいた檜の角材も少量有った。垂直尾翼の安定板の桁と方向舵の後縁を加工接着。檜材は、のこぎりで切ってもカンナをかけても独特の強い芳香を放った。
5月2日、プロペラ材料の一部(3枚)を積層接着 VWエンジンを圧着用重しとして使用。
メイン・フレーム用のアルミ合金材料(角パイプやアングルなど)は、日本のジャイロコプタのパイオニア坂元義篤氏に由来すると称するミリ・サイズのものを入手済。
7日、アルミ合金材料から、マスト、キール、ブレース等のメイン・フレーム部材を切断加工。工具は一般の金のこ。材料を固定する為の万力は無いので木製の椅子を横に倒し、これを工作台として作業する。アルミ合金材なのでのこぎりを忍耐強く動かしてやっつけるのだが、アングル材はともかく50ミリ角パイプ(肉厚3ミリ)を切断するのはやはり骨が折れる。必要な寸法に正確に切れないので余裕を見た所を切り進むのだが、そうすると今度は作業がラフになって直線で無くなってしまう。後でヤスリで仕上げようと考えるのだが、これも手作業と有って能率が上がらない。何度も何度も休憩一服するものの途中で嫌気がさして、仕上げは後でまとめてやろうなんて事になって、結局まぁいいやになってそのまま、最後までそのまま。
8日、メイン・フレーム仮組立。マスト・チューブとキール・チューブをガセット・プレート(添接板)で挟んで結合、座席の背当て部に相当するブレース材(支柱)を渡してメイン・フレームが形となった。一般の飛行機であれば、これが胴体に相当するので、ジャイロプレンを作るのは極めて簡単といえる。
11日、プロペラの残りの部分(2枚)を積層接着、硬化が済めばこれがプロペラ・ブランクとなる。13日、操縦桿モックアップ製作。18日、座席フレーム、方向舵ペダル製作。19、20、21日、垂直尾翼(安定板、方向舵)の小骨製作治具を作る。
24日、垂直尾翼(安定板、方向舵)の小骨(リブ)を接着組立。25日、方向舵骨組み接着組立。方向舵前縁をお湯で曲げ加工。26日、方向舵前縁の片側を接着。27日、方向舵前縁の反対側を接着。30日、安定板骨組み接着組立。
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6月2、3、4日、安定板と方向舵のヒンジ取付け部の補強加工。5日、尾輪取付け。安定板と方向舵のヒンジ金具加工。6日、安定板外板右側接着。7日、安定板外板左側接着。8日、方向舵ホーン・バランス部加工、外板片側接着、洗濯ばさみ活躍。
エンジン・マウント用プレート切断~アルミ合金材では有るが切断長さが300ミリも有るのでパイプより始末が悪い。金のこの刃の向きを変えたり、柄を外して作業したり悪戦苦闘。9日、エンジン・マウント下部組立用チャンネル切断加工。50ミリ角パイプから切取り。これは主脚ストラット(支柱)の上端取付部になるのだが、この部品のサイズで有れば息切れしないで済む。12日、安定板取付金具切断加工。これは安定板の桁をキール・チューブ後端に結合する為の物。14日、エンジン・マウント仮取付。15日、安定板仮取付。操縦桿用ピボット製作。16日、操縦桿、前脚、主脚チューブ切断。材料は軟鋼薄肉鋼管。直径25ミリ肉厚1.6ミリ程度なので金のこによる切断もさほど難しくない。しかし数をこなすのはやはり骨がおれる。 
17日、操縦桿、前脚、曲げ加工依頼。プロペラ用スラスト・ベアリング購入。18日、操縦桿、前脚、曲げ加工完了。22日、操縦桿グリップ部分切断トリム加工、ピボット取付。安定板前縁部仕上げ。プロペラ加工用1寸5分ノミ購入、プロペラ加工開始(ブランク重量5キログラム)。荒削り段階なので削り屑の量が馬鹿にならない、細かい木屑や粉が飛び交って、業終了時には部屋中にうっすらと独特のほこりが積もっていて、拭き掃除が一回では済まない。
23日、プロペラ・ハブ、ハブ・プレート及びロッド・エンド金具製作図面完成。24日 プロペラ・ハブ、ハブ・プレート及び操縦系統ロッド・エンド金具を近くの鉄工所に製作依頼。27日、ケント紙でプロペラ型紙製作。29日、プロペラ加工~重量3.6kgとなる。主脚キール側金具取付。7月1日~5日、プロペラ加工~重量3.0kg弱となる。 6日、コックピット・ナセル寸度決定。7日~10日、プロペラ加工。14日、ステンレスをテーパー切断したメタル・スパー材料発注。18日、プロペラ・ハブ、ハブ・プレート及びロッド・エンド金具完成。19日、プロペラ・センター穴加工。20日、メタル・スパー材料到着。

main frame1
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<形になったメイン・フレームなど~飛行機であればこれが胴体に相当する>
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  1
「Chapter No. Zero」  「ジャイロプレン/趣味の自作航空機」 
筆者は、かつて、広いとはいえない生活空間(2DK)の中でジャイロプレン(オートジャイロ)を自作しました。幸いにしてG6-2DK 「Antares」と命名された機体はそこそこの飛行が出来るようになり、飛行大会で展示する事も出来ました。その後、ブランクもありましたが、空のスポーツに復帰し、活動の経緯を個人のウェブ・サイトに掲載しました。「Chapter No. Zero」<「ジャイロプレン/趣味の自作航空機」>は、航空機、それも小型で自作が可能な回転翼航空機、ジャイロプレン/オートジャイロが大好きな個人の個人による個人的な記録であり「自己存在証明」でもあります。差し障りがないと判断した件については何人かの方々が実名で登場しますが御了承下さい。内容については出来る限り「正しく」を心がけますが、もし誤りなどがありましたらご指摘下さい (ウェブ・ページの約1,000項目から抜粋・整理 Jan. 2015)。

始まり  ミッドウェイ あるいは ターンポイント  
昭和46年(1971年)、知床旅情がヒットした年、8月12日火星が大接近、同16日、私は小型トラック(2トン/エルフ)を運転して福島県郡山市をめざして国道4号線を北上していました。荷台には小さな航空機をロープでくくりつけて積んで有りましたが、私の手製自家用オートジャイロです。これは終戦記念日の時期に、群馬県の館林飛行場で行なわれた日本自作航空機協会の第1回フライ・インに参加する為に、岐阜県各務原市からレンタカーで運んで来て2回ほど飛行したもので、事情があって郡山市の実家へ預けようとしていたのです。カーラジオからは高校野球の実況放送の他に、何か問題だか事件が起きたらしく、たいそう難しい話が流れていました。その時の私には全く知る由もありませんでしたが、ずーっと後で分かった事は、それは「ニクソン・ショック」と言われた国際通貨体制の崩壊~米国のドル防衛策にかかわるニュースや解説であったようです。少し後で発売になったグラフ雑誌には、第1回手製飛行機大会の様子が掲載されましたが、その発売広告には「360円時代去る-円変動相場制発足-」とあります。特集記事の写真とキャプションは新進気鋭の航空写真家 瀬尾央氏によるもので、表紙の写真も氏が機首に取り付けたカメラを私が空気圧で操作して撮影しました。「ミッドウェイ あるいは ターンポイント」と言うと大げさですが、世の中も私の生活も大きく変わろうとしていました。この時期を境にして前へ戻ったり後へ進んだりしながら、記録と記憶に基づいて気が向くまま、特異かつ魅力的な航空機とのかかわりを記す~「Chapter No. Zero」の始まりです。

 

始まりの始まり 
1953年(昭和28)、中学生の頃、月星印の靴屋さんのヘリコプタ(Bell 47型)が飛来して中学校の校庭に降りた事が有った。これは事前に話題になっていて大勢の人が見物に行った。着陸地点を遠巻きにする形で杭を打って縄が張って有ったが、着陸してエンジンがカットされてローターの回転が落ちてきたら、もう役に立たなかった。ずっと後で見た映画のリンドバーグのパリ到着時のシーンみたいに、もちろん規模は比べるべくも無いが、皆が一斉に走り出してそして機体を囲んでしまった。頭の、目のすぐ前をローター・ブレードがまだかすかにヒューッヒューッと風切り音を出しながらゆっくり動いて通り過ぎて行く。私も群衆に紛れ込んでいて、物心ついて以来初めて間近に見た航空機であった。着陸する前に空中停止したり後退飛行とか横進そしてその場でクルリと向きを変えて見せてくれたりした。ヘリコプタ良いなーであった。

ワンマン・ヘリコプタ 
1957年(昭和32)、高校生の頃、市立の図書館がすぐ近くに有ったこともあって放課後かなり頻繁に通っていた。ポピュラー・サイエンス誌の日本語版で見たワンマン・ヘリコプタの記事。簡単な折りたたみ分解構造で小さなコンテナに収まる。当時の複写製版技術のせいか、縞模様がかかったようなあまり鮮明とは言えない写真の事とともに、鮮明に記憶に残っているのは、エンジンが止まっても「羽根のように安全に着陸出来ます」とかの説明。おそらく簡単な原理とか操作の解説もあって「オートローテーション降下」にも触れていたと思うけれども、当時の私はそのような事には全く無頓着。まっすぐ上がり降り出来るチッポケなヘリコプタ。庭から上がって空を飛んでどこかへ行ける、いいなー、しかもエンジンが故障しても安全に着陸出来るんだって~羽根のようにフンワリ~いいなー、欲しいなー。

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<HILLER “ROTORCYCLE”>
写真はポピュラー・サイエンス誌の日本語版の元の記事
Popular Science Apr 1957 ~ Google Booksからのコピー。

ティプシー・ニッパー   build-it-yourself キット  
1958年、進学準備で忙しかった頃、航空マガジンという大型の雑誌があって目にとまったのが「ティプシー・ニッパー Tipsy Nipper」機の紹介記事。「誰にでも簡単に組み立てられる」アマチュア向けに「build-it-yourselfキット」で売り出されている、木・金混合羽布合板張り構造、エンジンはフォルクスワーゲンの自動車用、原型は26Hpを使用、完成機でも工場渡し1,000ポンド。ベルギーのフェアリー社E.O.ティプス氏の設計。全幅6m 全長4.5m 自重165kg 最大速度120km/h 離陸距離135m 航続距離300kmなどなど。
へぇー、飛行機というのは作る事が出来るのか、まあ当たり前と言えばその通りなのだが、つまり飛行機製造会社製、例えば俗称セスナ機なんかを買わなくても個人が作って飛ばすことが出来る~実際に人が乗って飛ぶことが可能な飛行機を個人が作れる~飛行機は案外安く持てるんだ、高値の花ではないのだ、しかも自動車エンジン僅か26馬力だって。私にとってはそれこそ目から鱗が落ちる様な新鮮な発見であって、具体的には良く分からないながらも頭の片隅に「自作航空機」が位置を占めて、自分で設計した飛行機を自分で作って自分が操縦して飛行する、デザイナー・ビルダー・パイロットを夢見るきっかけになった。21世紀の現在、ティプシー・ニッパーの動画をインターネットで閲覧できるし、図面も販売されている。
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<ティプシー・ニッパー 「航空マガジン」誌 Jun.1958 から>

霞の目飛行場  
「南国土佐を後にして」が大ヒットした年。幸い希望の大学へ入れて親元を離れる事になり、仙台市内に下宿先等が決まって落着いた頃、目にとまったのが掲示板にあった部員募集の張り紙。白い西洋紙にフェルト・ペンでセコンダリー(中級滑空機)が描かれていて「学友会航空部」とあった。入部に先立って希望者は体験飛行が出来るとのことで応募した。ゴムひもを大勢でわっせわっせ引いて、そしてフックを外して飛び出させるやつ~プライマリー(初級滑空機によるパチンコ)だろうと思ったら、そうでは無くて複座機で上級生が同乗操縦して自動車曳航して200メートル位まで上げて3分ほど滑空するのだとか。半信半疑で指定日に指定場所、陸上自衛隊霞の目(かすみのめ)駐屯地の飛行場に行ったらその通りで、所定の用紙にサインさせられて順番が回ってきて後席に搭乗。ベルトを締めてくれて、これに触るなあれを掴むななんて指示があって、面倒くさくも何もなくあっさり空へ上がった。学生が空を飛ぶのがこのように手軽に出来るとは夢にも思わなかったのでちょっと驚きだった。ある新聞社がバックアップしてくれていて、部活費用もそれほど負担にはならないと思われ、後先考えずに入部手続きをして、60年安保闘争や何かで世の中が騒がしい時節ではあったが、休日であれば飛行場へ通うノンポリ学生の4年間がスタートした。プライマリーはともかくグライダーはそれなりに高値の花と思っていたのだが、セコンダリー1機の他にソアラー(上級滑空機)も1機あって、しかも部の活動も雰囲気もリッチな感じとはほど遠いものだった。更に思い返してみると、訓練もいわゆる体育会系的なそれでは無かった、そういう意味でも、ここで空へのかかわりを得た事は大変幸運だったと思う。
 
航空機乗組員手帳の飛行記録
昭和34年(1959年)4月26日 JA0128  [2分07秒] 体験飛行

初ソロ~最初の単独飛行  昭和35年(1960年)7月20日
 
東北大学学友会航空部は、東北学院大学航空部と共に、読売新聞社が後援する学生航空連盟東北支部に所属していて、訓練は合同で行なわれ、また同じ飛行場で活動していた社会人の北日本ソアリング・クラブの方々からは折に触れて有益な御指導をいただきそして直接間接影響も受けた。体験飛行で初めて空を飛んでの印象といえば、まず自動車曳航(直曳)なので、動き出したと思ったら急角度の上昇へ移り、その時前方の景色は空だけで有った事、曳航索を切り離す時体が浮きそうになった事(曳航車が滑走路端へ来てもうこれ以上高度を取れないとなったところで、機首を下げる操作が行なわれるので、ここでGの低下が起こる)、風を切る音と上空からの素晴らしい景色。「発見」は高い所ではまずスピード感が無い事、機体が、自分が動いているんだという感じが無い、旋回するときは地球が傾いて行く様に思われた。スピード感はともかく、操縦操作とそれによって起こる機体が動く事の関連付けが体得出来て、体が正しく感じ取ってそれを操作へ反映させる事が出来るまでには時間を要するが、これこそ訓練の目的の一つであり、最大のものと言える。萩原式 H-22 型セコンダリーで訓練が始まり、教官から指定された上級生(助教官)が後席で指導してくれ、時々教官がチェックしてくれて良しと判断があれば単独飛行に出られる。初ソロ(最初の単独飛行)は個人差が有るが大体2年目の夏を中心に誰もが達成できた。自分の時は運悪く半端な高度で索切れを起こした。本能的に機首を下げて曳航索切離しノブを引いて左へ緩旋回してクロス・ウインド・レッグへ。自衛隊の建物を近くに見ながら第2旋回は大きな内滑りを起こして高度をロスってダウン・ウインド・レッグ。高度が無い、僅かなバンクを付けて左へだらだら180度旋回して水平に戻したところが滑走路で、同時に返し操作(引起こし)をして着陸。初単独飛行の記憶で鮮やかなのは操縦桿の手応えと離陸上昇が軽かった事。

昭和35年7月20日 JA0121 飛行時間の記録は  [ - ] 。

ソアラー単独飛行  昭和36年(1961年)6月11日 荻原式H-23B2 JA2030

この年の4月、ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行をやって帰還した。

自家用操縦士技能証明 第836号 <滑空機中級> 取得
昭和37年(1962年)8月

昭和38年3月卒業  昭和38年(1963年)3月 
助教官として直接後輩の操縦訓練をやってあげられる技量には達しなかった~これはもっと長い期間やれば出来たかというと、それはまた別の話であって、つまり資質の問題であると率直に認めるが、クラブ活動は比較的積極的にやったと自負しており、結果として~結果としてと言うのも甘ったれた言い方で~早い話が怠けていたので別の方がおろそかになって、最後はかなり苦しかったが何とか単位を確保して規定の年限で卒業出来た。幸いな時代背景があって卒業を条件とはするものの就職先は早々と決まっていた。
 
     <JA2030 ↓>                     <JA0121 ↓>
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六さんとジャイロ 
昭和36年(1961年)10月13日、日本のグライダー界の超有名人、清水六之助氏~六さん六さんと親しまれていた~が、ジャイロ・グライダの試験飛行中に墜死したニュースは、霞の目飛行場で訓練中に社会人のクラブの方からであった。私達学生は名前を知っていても会った事もないし普段の活動には直接の関わりのない方であって、話に出てきたジャイロ・グライダとかいうのがどんな物かも知らなかった。しかしそれを全然知らないままに、「ジャイロ・ナントカ=危険」のイメージが出来ちゃった様で、「世界の翼」誌などで開発者イゴール・ベンセンが胴体らしくもない細い裸のフレーム構造に腰掛けて曳航されて、又はエンジンで飛んでいる写真を見れば、あぁこれがあれか、やっぱり危なっかしいなぁと思った。普段関わっているグライダーの操縦者の周りにはちゃんと囲いが有って、つまりここは部屋であって布(羽布)1枚とはいうものの、外気から遮断されて飛んでいる、しかも1人や2人の搭乗者にはもったいない程のお供~左右の大きな翼と後ろの安定板付きの長い胴体を従えているのだ。グライダー界の中でジャイロ云々の話が出れば、それは不幸な六さんの事故に直接関連付けられて、従ってジャイロは良い印象は持たれていなかった様に思う。私もジャイロへの関心はこの時の事故に関してだけで終わり、将来ジャイロプレンに手を出すとは考えられなかった。ベテランのグライダー・パイロットが関わったこの事故が、戦後日本に於ける最初のジャイロ事故でもあり、氏を悼む記事<「航空情報」誌>に「ジャイロ・グライダなどで彼を失ったことがどんなに大きな損失かはかり知れない」とある。
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清水六之助氏 ジャイロプレン試乗中墜落死亡 読売多摩川飛行場 
大正2年5月5日生  昭和36年10月13日没 享年49

軽飛行機設計コンテスト  
昭和37年(1962年)1月12日の朝日新聞で、国産軽飛行機の設計コンテストが発表された。
主催 朝日新聞社/後援 通産省・運輸省/協賛 本田技術研究所
翌13日紙面に「くるか‘空中ドライブ時代’ 育てよう軽飛行機への夢 世はあげてレジャー時代---老いも若きも旅行や自動車、ゴルフ---余暇を楽しもうと・・・」の半ページ以上の記事と共に応募の手引きが掲載された。「清新なアイデアを 簡単な構造 安い製作費で 離着陸のさいの距離は出来るだけ短いこと 耐空類別は 飛行機実用U類 発動機は本田技術研究所で開発中の空冷倒立V型8気筒エンジン---工業所有権はいっさい主催者側に属する---」 「詳しい応募規定などは新聞社航空部までハガキで申し込まれたい」などなど。応募者全員に参加賞を贈るともあって、何はともあれ応募規定を申し込んだ。 締め切りは同年5月10日でそれまで4ヶ月ある。参加賞をキーワード?にほんのちょっぴり模索したが、いかんせん基礎知識もない上にまとまった資料などの背景が無くて、どこから如何にアプローチして何をどのようにまとめれば良いのか皆目見当が付かないまま、結局参加賞もギブアップした。つまり応募しなかった、応募するに至らなかった、まとまらなかった。しかしこの過程でのイメージは秋の大学祭の展示用として、かなりハンパなものでは有ったがモックアップ(実物大模型)として形にした~木製の枠組みに障子紙を貼った張り子だが、壊さないように慎重にコックピットに座り込むともう嬉しくて、イッパシのパイロット気分でしばらく降りられなかったり、手伝ってくれた方々が代わる代わる乗ったり降りたり~無邪気そのもの。この頃は部活の目の前のグライダーを乗りこなす事が急務ですっかり忘れていたのだが、前に高校生の頃に夢見た航空機の手作りの事がまた意識の表面に出てきて、このあたりをきっかけにして航空機の設計とか製作を意識して資料の選択と収集が始まった。資料と言えば応募規定そのものが当時の私にとっては貴重で参考になった~ティプシー・ニッパー機も掲載されていたし末尾の性能や仕様の一覧表がありがたかった。設計コンテストの結果は、第1部(一般)の主席を宮原旭氏が獲得、氏は元華族で戦前から数多くのグライダー(滑空機)を設計した方で本庄季郎氏と共に設計した最新の三田3型複座ソアラーは昭和62年10月23日に初飛行した。後に日本自作航空機協会を設立し、その活動の一つとしてジャイロプレンの操縦技量に関わる航空協会の認定員制度の制定にも力を注がれ、これは後に超軽量動力機が普及した折りに参考にされて基本的に踏襲された。9年後、群馬県館林市大西飛行場で行なわれた日本自作航空機協会の第1回フライ・インの会場で、宮原旭氏から「‘まとめること’が大切ですね」と声をかけていただく機会が巡ってこようとは夢想だにしなかった。まとまらなかった実物大張り子。2スパーの主翼は合板でリブを作り障子紙を張った。車輪は無し、プロペラはどうした?。
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<「純国産軽飛行機の設計募集について」>

金華山・岐阜城巡り  
戦後初の国産旅客機YS-11が初飛行(昭和37年8月30日)した翌年、昭和38年(1963年)、希望が叶って航空機製造会社に就職出来て最初の6ヶ月の間は見習い教育期間。あちこちの事業所を移動して研修の日々。兵庫県明石ではジーゼル・エンジンやオートバイの生産ラインに入ったり、岐阜県各務原ではバス・ボデイの組立現場にも入った。教育?の一つとして岐阜市にある金華山を山頂の岐阜城まで駈けて?登るなんてハードなものも有ったが、後のビールが楽しみで頑張ったり、一方川崎バートルKV-107双発大型ヘリコプターの体験飛行で同じく金華山・岐阜城を上空から眺めて一周して帰って来るなんてのもあり、社会人生活に向かって第一歩を踏み出した、緊張と充実の毎日では有った。岐阜城や愛知県の犬山城を手製のジャイロで空から訪ねる夢を見たのは、もっと後の事である。

モーター・バイク 
社内販売のモーター・バイク B8 (125cc)を購入。学生の頃から欲しくて欲しくてたまらなかったオートバイ~会社がメグロを吸収合併して始めた単車事業部が製造販売していたBシリーズの最新型が大変好評だったので、配属決定(岐阜製作所 航空機事業部)の直後に契約して入手した。仕事が終わった夕刻、近くの寮へ戻って慣らし運転と称してツーリングへ飛び出す毎日が始まった。 7月27日、会社の夏休みを利用してモーター・バイクで宮城県仙台へ向けて出発。29日、仙台市‘霞の目飛行場’着。30日、合宿訓練に顔を出してチェックを受けて東北学院大学の新ソアラー H-23C JA2053を初ソロ。野田佳六先輩の操縦で宙返りを体験させて貰った。
次の霞の目の空は、平成12年(2000年)7月9日、全く思いがけない形で実現した(曳航機 JA4082 クリスチン・ハスキー:操縦者 大友宏之氏/グライダーJA2188 シュワイツァー 2‐33 :操縦者 後席の古川健二氏)。

富士登山 
仙台市からの帰り道、富士登山を計画して8月2日PM5:00 富士吉田着。途中枯葉?で滑って転倒したりエンジンの調子がおかしくなったりしたが PM8:30 5合目到着。真夜中12時頃から歩き始めて昭和38年8月3日午前4時、富士山頂 ~ 日本一高い所。

モーター・バイク事故  
勤務先には社内クラブの一つとしてグライダー部があり、萩原式H-23C型を1機所有、中日新聞社傘下の中部日本航空連盟に加盟して休日には岐阜や明野の自衛隊敷地をベースとして活動していた。自分も配属先が岐阜に決定した段階で入部したが、たまたま曳航機材の都合で活動が休止していて訓練実績を積めないでいた頃~昭和38年(1963年)8月25日(日)各務原市内でバイク事故。このところ、ずーっと順調に来ていて気持ちがゆるんでいた、調子に乗りすぎていたとがめが出たのでもあろうか。左下腿骨粉砕骨折(膝関節のすぐ下)で入院(赤座病院)。これだけは夢であって欲しいと、その後何度も何度も思い呪ったが後悔してもはじまらない覆せない事実だった。かかとの骨に穴をあけてピンを通し、この左右にワイヤをかけて滑車を介した重りをぶら下げて、牽引した状態で絶対安静を言い渡される。全く身動きが出来ず熟睡出来ない状態で屈辱と忍従の日々がおよそ半年。一度は松葉杖で歩行出来るようになったが、骨の付き具合出来具合が悪くて(偽関節?とか)、お医者さんが再検討の末に取った次の手段、腰の骨を移植する手術が行なわれてギブスを付けて、またまたベッドを降りれない生活。その間に1年が過ぎて会社の規則の定める所に従って昭和39年(1964年)8月31日付けで解雇された。致し方無かったが完治したら再雇用する事を約束してもらった。やはり骨の出来具合がはかばかしくなくて何度も検査とギブスの巻き換えが行なわれた。最終的にギブスと杖の必要が無くなって一応のリハビリが済んで退院したのは昭和40年(1965年)4月の始め、YS-11の初就航が話題になった時期、入院期間ちょうど600日目を選んだ。退院の見通しがついた頃、お医者さんから「左足を切断しようかとも思った、良くぞ直った」と聞かされた時は、まったく「ギャ~」の気持ち。
trauma
良かった良かった、有り難うお医者さん、ありがとう看護婦さん。入院中にはケネデイ大統領暗殺昭和38年(1963年)11月23日を伝える初の通信衛星放送や、同12月力道山死亡のニュースを身動きならない状態で聞き、会社のグライダー部のH-23C型キリモミ墜落事故(1人死亡、1人重傷)の報にも接した。昭和39年(1964年)10月開幕の東京オリンピック大会は杖を付いて待合室のテレビで観戦、看護婦さん達の黄色い声援の中で東洋の魔女が優勝した。退院直前、昭和40年(1965年)4月1日、YS-11 が東京-徳島-高知に就航した。

この入院期間中に入手した参考書。
翼型の本 Theory of Wing Sections / Abbott ・ Doenhoff
構造の本 Aircraft Structures / Peery
性能安定性操縦性の本 Airplane Performance Stability and Control / Perkince ・ Hage
他に大学の航空部が設計中の新ソアラーの鋼管トラス構造胴体強度計算書

トラウマ trauma 
小学生の頃柿の木から落ちて腕の骨を折って、その時は入院せずに済んだ。バイク事故の後だいぶたってからだが、自動車事故がらみで足首を骨折して入院した。この時は頭も打って一時目が見えなくて、アァこれまでか~なんて。そして間をおいて今度は鉄板に押し倒されて、またしても足を骨折して入院。どういう訳か診断書の骨折名称には、必ず「粉砕」とか「複雑」とか「解放性」の形容詞が付いて治療は長引いた。後で聞いた事だが、母が家内に言ったそうな~あの子(私のこと)は歯が生えるのが遅かった。反面このような事もあった。某年某月、伐採作業中に凡そ4mの高さから転落、身動き全くかなわず救急車で入院したが全身打撲で済んで1週間で退院出来た。もっとも自宅療養にはしばらく時間を要した。普段の心がけのせいであろうか、成人してからのこのような事故には、いつも「失業」が追いかけて来た。ともあれ骨折には十分注意しよう。トラウマ(?)は沢山蓄えた。

職場復帰とグライダー訓練再開  
昭和40年(1965年)6月1日、退院後しばらく鋭気を養って約束通り再入社、職場復帰を果たしたものの実務に関してはいかんともしがたい2年のブランクが有り、頑張る他なかった。仕事もそれなりに軌道に乗った頃、縁があって結婚(昭和41年(1966年)12月)、住まいが独身寮から新築したばかりの社宅アパートの2DKへ変わり、そして会社のグライダー部にも復帰して訓練を再開した。機体は中航連のH-23C(JA2052)、曳航機材は航空協会のウインチまたは中日新聞のパイパー・スーパーカブ(JA3082)、場所は自衛隊の岐阜基地又は明野基地。当座の目標は滑空・滑翔慣熟と自家用操縦士・滑空機上級資格のための飛行機曳航訓練及び3等航空整備士・滑空機の資格取得。整備士に関しては学科試験を2回受け、実技試験は飛行船(JA1001 キドカー号)の検査のために来岐していた航空局の担当の方が時間を調整してグライダーの格納庫で実施してくれた(交付 昭和43年9月25日)。上級資格の実技試験は明野で実施した(限定変更 昭和43年12月20日<中級交付 昭和37年8月14日>)。次の目標は教育証明、少し遠いけれどモーター・グライダーも視野に有ったのだが・・・。

フォルクスワーゲン VW1500cc エンジン入手 
勤務先のクラブ活動、航空またはスポーツ航空分野のものは模型飛行機クラブとグライダー・クラブだった。所属したグライダー・クラブの先輩友人の殆どが自分たちが乗る機体を製作してまでやろうとは考えない。中には「我々はプロである~日常の仕事でそれ(設計・製作)に没頭しているのだから、余暇活動ないしは趣味としてまでやる必要はない」とハッキリ言う方もいた。一方で自作飛行機に興味を持ってコツコツ研究していて、木製機に適した品質の木材の値段は一石(容積にそのような単位を使うのだそうである)**円位だ、などと教えてくれる例外的な方もいた。そのような環境の中で折に触れて自前の航空機を設計製作して飛ぶ、なんとかしてやり遂げたいなんて夢の話をしては、「また始まったぞ」なんて冷やかされたりもした。家に帰れば思い切って購入したドラフターを食卓にセットして、夢の設計を、あーでもないこーでもないとやる毎日。軽スポーツ機は小さくまとまるが操縦免許取得の費用の問題がある。既にライセンス所持のグライダーは、エンジン不要なのでその点安くあがるだろうが、クラブで使用している機体以上の性能なりの物でなければ意味がない~グライダーではダメ、ソアラー・セイルプレーンでなければ。となると滑空比を稼ぐ為にはそれなりのスパン(翼幅)が必要で馬鹿でかくなる。動力付き滑空機の規格に入る程度のそこそこの性能の小さなやつなら取り扱いも楽であろう。しかもそのような設計思想の小柄流麗な動力付き滑空機(モーター・グライダー)スポルタビアRF-4が輸入されて話題になっていた。滑空機は飛行場で無くても離着陸して良いという面白い規定も有るようだ。滑空機なので飛行機に比較すれば審査も検査も多少楽であろう。ライセンスの事は別途考える事にして自作機はモーター・グライダーをやろう、この辺で決めて前へ進まなきゃ。そのような模索の過程で適当なエンジン選択の事も関心の的、友人・知人との間にも話題として少しずつ浸透?していった。例のモーター・グライダーは1200ccのVW自動車エンジンがベースだという。パブリカやコニーの水平対向空冷2気筒エンジンなどが候補に上がるうちに、クラブの友人が KK梁瀬名古屋支店フォルクスワーゲン部勤務の坂手章夫氏を紹介してくれた。やはり空が好きでスティーブ・マックィーン主演の映画「華麗なる賭け」(シュワイツァー・グライダーとVWサンド・バギーが出てくる)の話で盛上がった覚えがある。しばらくして新品同様の1500ccVWエンジンが出せるとの連絡があった。1500cc53馬力は大きいなー、その必要は無いのだがとも思ったが入手手続きを進めた。やはりクラブの友人のライトバンを借りて引き取りに行ったが、木枠の大きな梱包で積めないので、中身だけを取り出して積み込んで貰う。補機やシュラウド、排気管等が付いているので凄く重い。アパートに到着して自動車から降ろすのにも一苦労だったが、問題は3階の自宅へ上げる事。アパートの親しい方に手伝っていただいて階段を一段一段上げ始めたが手は抜けそう腰はがくがく、途中の踊り場で諦めた。通行の邪魔にならない用に隅に置いてしばらくお休み。その時の作業にうんざりして、通勤途上階段を上がり降りする度に、それを横目で見て何日も過ぎた。意を

決して少しずつ分解、最終的に家内と二人で部屋に運び込める程度になり、更にクラッチやフライ・ホィールを外すと吸気マニフォールドに手をかけてなんとか一人で持てる様になった。しかしそれでも重い、モーター・グライダーにこのような大きいエンジンは必要ないのだ。ともあれピカピカのエンジンが我が家の一隅を占領し、これを眺めながらモーター・グライダーの構想を進めた年末となり、昭和44年(1969年)を迎えた。

<VW 1500cc エンジン・アッセンブリ>

VW1500

土井武夫氏とオートジャイロの間 
表題にある氏名は日本航空界の偉大な先輩の一人、3式戦・飛燕の土井武夫氏のことです。明治37年(1904年)10月31日山形市生まれ、平成8年(1996)12月24日死去 行年92。個人的なホームページとはいうものの、このようなタイトルで登場していただくのは、誠に畏れ多い事なのですが失礼を承知で記録しておきます。
国産旅客機YS-11の主翼取付部に入れる、上反角増大クサビが話題になっていた頃、航空機製造会社に就職出来て艤装部門に配属になって、職場は空力や構造等航空機そのものズバリの部門と同じフロアに有りました。隣接した専門部門には土井顧問(肩書~そのように記憶します)が頻繁に出入りして、検討や指導を行っているようでした。遠くからあるいは近くでその姿なりを拝見しただけでしたが、小柄ながらもがっしりした体格、非常にエネルギッシュな印象を受けました。個性的な大きな声が聞こえて現れた事が分かると、話の中身に聞き耳を立てたりしました。直接の薫陶なりを受ける機会は有りませんでしたが、土井顧問の話として記憶に有るもの、それは「図面を引きなさい」です。構想なりは製図する事によって全てが具体化する、問題点が明確になって対策も立てられる~そのような趣旨と受け取りました。土井武夫氏と自作オートジャイロには何の関係も有りませんが、その間にドラフター(製図器具)が絡んでいるのです。かねがね自前の飛行機を作りたいということで、ドリーム・デザインは、まぁ結構ありました。しかしいつもアイデア・スケッチの域を出ないで 細部が決まらないまま飽きてしまったり、目移りしたりで結局まとまりません。スポーツ軽飛行機 ソアラー モーター・グライダー はたまたヘリコプタなんかも顔を出したりしてその繰り返し。その様な状況のもと、私の中で土井顧問の言葉が大きく膨らんで行きました~「図面を描け~さすれば具体化する」。職場でもまだ全員には行き渡っていなかった、安くもないドラフターを購入して食卓に据え付けました。はじめの頃は3面図を青焼きにして飾っただけで嬉しくて、それ以上進展しませんでした。しかし出費を無駄にしないように頑張って、細部を適した縮尺で書き表わせば確かに、寸度は適切か?この部材は何を使うか?そのサイズは?強度は?重量は?必要量は?入手先は?値段は?と具体化しない筈が有りません。小さなスケッチの段階ではあまり気にもしなかった、各部位、例えば胴体と主翼の結合方法やその金具の事などが具体的に問題となって迫ってくるわけです。一方VWエンジンを入手してからは、目の前のそれを見ながらやったので、マウントの仕方やコックピットとの位置関係などが一層良く検討出来ました。会社の仕事とは違って自由度は大きく、例えば座席や操縦系統の大きさとか配置の基準は自分の体格で良い訳であり、厄介な顧客の仕様は無いし職制上の承認サインも不要です。更にその最たる物はビールを飲みながらやれた事です。というわけで非常にハッピーなひとときでもありました。かくして昭和43年(1968年)の暮れから翌年の始めにかけて、モーター・グライダーが一応まとまって、材料リストのうちJIS規格( JIS W-1101)の航空機用樺合板を‘新田ベニヤ’に発注しました。しかしです、それなりに行程目標も立てたりしましたが、製作場所をどうするかの問題も、やはりというか当然ながら大きく具体化してしまいました。結局まもなく、ドラフターはオートジャイロの図面を引く事に使われるハメになりました。大きな大きな先輩を偲びつつ~表題の所以です。

小牧祭 
昭和44年(1969年)11月。小牧祭(小牧空港のお祭)に行く。話題のモーター・グライダー スポルタビアRF4 を見る。美しい!。ついこの間、今年の初めの頃は間違いなく、そのようなモーター・グライダーを作ろうと夢見ていた。だからこそ現在の目的(ローター・ブレード)には、サイズが中途半端な合板の手持ちが沢山有るのだ。どこでどう狂ったか?。

rf4
     <スポルタビア RF4 昭和44年11月 小牧祭にて>


ライト航空ニュース 
昭和44年(1969年)1月末、横浜市杉田の日本飛行機へ出張中の日曜日。勤務先のグライダー・クラブとして注文していた「The World Sailplanes Vol. II」がなかなか届かなかった事が頭にあって、近いことでもあるし、ついでに航空機自作の参考書を探してみようかと、手帳にある住所を頼りに藤沢市のライト航空商会を探して訪ねた。「航空洋書」の専門店と言うことを何か(航空雑誌の広告?)で知っていた訳だが、用向きを言うと事務所兼自宅(-と記憶する)に招き入れてくれたのが石川昭氏だった。排気容積1,500ccのフォルクス・ワーゲンのエンジンを入手済みである事を話したら‘ジャイロコプタをやるのか?’、‘いやモーター・グライダーを考えています’。‘ジャイロコプタがおもしろいですよ’とかの話を聞かされて、結局「ライト航空ニュース」誌の購読入会手続きをして、同誌のバックナンバーを有るだけ全部と、出来たばかりだと言う「ジャイログライダ B-8 マニュアル」の日本語版を購入した。「ニュース」は航空洋書を紹介するカタログである一方で、軍用機や戦車に関するマニアックな記事なども有ったが、自作航空機に関わる記事にかなりのページをさいていて、写真や図解も豊富、出張期間中は宿に帰ればこれらを開き退屈しなかった。振り返ってみれば、あとあと資料や部材そして情報入手の為の手がかりを得た訳である。ライト航空商会はその後、株式会社となり東京都内に事務所を開き、紆余曲折が有って‘エアロインフォーメーションズ’となった。会員誌「ホームビルト HOMEBUILT」を発行、編集長は石川昭氏。
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自作航空機の黎明期 
昭和44年(1969年)春、会社の図書室で前後して目にとまったのが次の文献(発表年月順)。
1  「The Era of the Autogiro」 J.A.J.Bennett
        [Journal of the Royal Aeronautical Society - Vol.65 Oct. 1961]
2  「The Low-Cost Autogyro」 Wing Commander K.H. Wallis
        [Journal of the Royal Aeronautical Society- Vol.67 Feb. 1963]  
3  「The Wallis Autogyros 」   Neil Harrison
        [FLIGHT International - 31 Mar. 1966] 
資料探しとは言っても、ひとつには昼休みの時間つぶしといった側面があって、他の方々はどうするか知らないが、新着雑誌の表紙写真を見て目次をザット見て、ぺらぺらめくって引っかかる見出しとか絵や写真が無ければそれまで、別の雑誌とかバック・ナンバーとか他の図書へ進む~本屋さんでの立ち読みと似たようなもの。
最初目に付いたのは、3に見開き2ページで載っていた透視図。一見してあの映画(007は2度死ぬ)に出ていたやつだとわかる、超小型オートジャイロのそれで、手放し飛行の写真も有った。映画に出たのはこれに撮影用空中戦用の装備を施したものらしかった。このFLIGHT International誌には、軽飛行機 グライダー 軍用機 そして旅客機まで、構造や装備の詳細が分かる見事な図解が掲載されて、これは仕事の上でも結構参考にされていて、それぞれの部門の他機例ファイルには必ずそのコピーがあり、それが厚くなったのは貴重な資料で有った。個人的にはヨーロッパあたりの木製軽飛行機やグライダーまたはモーター・グライダーに的を絞って探し求めていたのだが、そのオートジャイロの絵も珍しい航空機でもあるので、そのような意味では大変興味深かった。しかし映画で見て、まぁ映画の中では水平安定板も無い機体がヘリコプタ相手に空中戦、軽快に暴れ回っていたのが印象に残ったが、例の六さんの事故の事も有り、あの類のやつは危ないとの潜在意識があったのであろうか、それ以上の関心はない。次に2のタイトルが目に入って執筆者 Wallis、どこかで見た名前だな?から始まって、細かい英文なので興味が起きなければ通常はまず読まないのだが、この時は少しずつ読み進んだ。これはアメリカ滞在中にベンセンのB-7ジャイロの図面を購入し、英国へ戻って1958年頃?から研究開発を進めてきたWallisが、試作機 Wa-116型の安定した手放し飛行を公開(1961年8月)した次の年1962年10月5日に、英国航空学会のRotorcraft Sectionで行なった講演資料であった。設計(製作)者兼テスト・パイロット自身の発表講演と分かって、しかもこの文献は他の航空雑誌とはちょっとばかり格が違うアカデミック!な香りがある。興味本位とはいえないまでも、一般の紹介記事とは違う筈だと興味をそそられた。機体の型式名称や設計者の名前もしっかりと頭に残り、自分がオートジャイロを志向するきっかけとなった。
wabe<Wallis-Bensen Gyro-Copter>

wademo2<Wallis Wa-116型 手離し足離し安定性>

Wa116A

 <Wallis Wa-116型 : FLIGHT International誌31 Mar. 1966より>


それまでは、この類の航空機はベンセンという名前とそのジャイロコプタか、ジャイログライダもしくはその亜流で、3の記事に有ったのもその類の物であろうとの認識しかなかったのだが。振り返って、3の雑誌を再び探し出して写しを取って、今度はオートジャイロに的を絞って従来よりは気を入れて資料を集め始めた。1が入手出来て、その後自前のオートジャイロを作って試験している間にも、他に細々した関連資料が手に入った。会社内には無かったが資料リストとしてメモしたものも有って、これらの一部は後年、国会図書館で見つけた。家では改めて、そのつもりでライト航空ニュースのバックナンバーを見れば、これはまた得難い資料。その当時の日本に於ける愛好者の活動進捗の様子が掲載されていて、近くの岐阜市にも既に手がけた人(坂 力 氏)がいた事や、既に公式飛行を成し遂げた方(坂元 義篤 氏)の記事も有って、ライト航空商会はその方とタイアップして(ベンセンの)ジャイロコプタ・ビジネスを立ち上げようとしていた。他に固定翼関係では大西勇一氏が自動車エンジンを使用して公式飛行をやってのけた事を筆頭に、全国各地で多くの自作航空機愛好者が頑張って相当数が形になっていて、製作進行中の誇らしげな写真や手記と関連記事が沢山載っていた。時はそのような、日本に於ける自作航空機の黎明期であった。
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「The Low-Cost Autogyro」K.H. Wallisの講演から以下は、次の冒頭部分‘Introduction’の抜粋要約。
「The Low-Cost Autogyro」 Wing Commander K.H. Wallis
        [Journal of the Royal Aeronautical Society- Vol.67 Feb. 1963]
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オートジャイロの原理や理論は良く知られている。最小の航空機としてのオートジャイロの実際的な設計と製造について考察する。(生産した場合の)値段は、機体の重量が手がかりになる。オートジャイロは1930年代にシエルバ一人の努力によって極めて高い水準に達した。今(1962年)新しいと考えられている多くのアイデアがその当時既に試された。ジャンプ・スタート、プッシャー・エンジン、3車輪式降着装置など新しい訳ではない。形は昔のオートジャイロのままの小型単座機も登場した。第二次世界大戦中「大きさ」に変化が起きた。ドイツのローター・カイト(Fa-330)の胴体は、単純なキール・チューブとマスト(又はパイロン)チューブを基本として構成されるオープン・フレーム構造。ローターはオートジャイロのようなフラッピング・ヒンジとドラッギング・ヒンジ付きの3翅ブレードで、直径24フィート。自重は約170ポンド、潜水艦によって凧の様に曳航して使用されたが、60馬力のエンジンを搭載する計画(Fa-339)もあった。イギリスで「大きさ」に関して更に大きな変化が有った。ロタュートがそれで直径15フィートのローターは2翅で、フラッピングに対しては共通のピンで対処した。これは滑空機であって、最終型の重量は僅か76ポンド、実際に人が乗って操縦できる現実的最小の航空機で有る事を示した。戦後アメリカでそのような機体がアマチュア・ビルダー向けに提供されて人気が出た。ロタシュートをスケール・アップした機体は、製作容易を主眼として設計された。このような小型の航空機は、オートジャイロが実現可能な絶対最小の飛行手段であることを示した。航空力学的には、1930年代から少しも進歩していないが、期待出来る事もある。大きいジェット・エンジンやガスタービン・エンジン及び小さいピストン・エンジンの重量に対する出力(power/weight ratio)が著しく進歩した。例えばC-30 オートジャイロの馬力荷重は13.6ポンド/馬力、現代のウルトラ・ライト・オートジャイロのそれは8ポンド/馬力である。考え得る最も単純軽量な機体(胴体airframe)と大

きなpower /weight ratioの小さなエンジンを組合わせれば、役に立つ非常に経済的な航空機が誕生する。そのような航空機は特別力持ちではないが、カメラとか無線機を装備して、人1人が空中で出来る多くの仕事をこなす事ができる。写真撮影、交通管制、パイプ・ラインや送電線の検査、(アクセス)困難地域との連絡、軍事利用の可能性等など。スポーツやレジャー用に限っても価値がある。2ポンド/平方フィート程のデスク・ローデングのウルトラライト・オートジャイロは動力付きパラシュート(powered parachute )と言って良い。エンジン停止時にヘリコプターで起きる様な急激なローター回転数低下の問題は無い。それは少しばかり低下するものの、複雑でも難しくもなく回転を維持する事ができる。損傷を受け易い大面積のカバー構成部が無いので、裸で放置しても風を受けての被害を被りにくい。同じ理由で格納スペースも小さくて済む。小さなエンジンは燃料消費率が自動車と同等、タイヤやシャ-シの維持管理費用は殆ど無い。寸法が大変小さいから、特別な用途のために必要な装備品や部材を同時に運べる、小さな道路トレーラーが有れば、迅速容易に移動して対応できる。ウルトラ

ライト・オートジャイロは、他の航空機では費用がかかりすぎて問題がある場合に活用できる。ヘリコプタや飛行機と競合する事なしに、その存在を正当化出来る。タイトル「The Low-Cost Autogyro」 を正しく評価する事は可能で有る。当然ながら具体的根拠の無い、そのような結論は賢明でない。今考えている大きさの物にあっては、それほど難しくもなく費用もかけずに実際的な形で得られる。もちろんオートジャイロが本質的に安全な航空機とはいっても、重力に関わる問題であるから、軽率には扱えない事は肝に銘じておかなければならない。試作ウルトラライト・オートジャイロを注意深く飛行してみれば、その有用性と魅力は明らかであり 真に耐空性と実用性が有る航空機を設計する刺激となる。
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